「100万円。これでいいでしょ」 「おう、確認させて貰うぞ」 男は銀行名の入った分厚い封筒を引っ手繰るように奪い取り、中から札束を取り出すと、今度は空の封筒を足許に打ち捨てて、枚数を数え始めた。 男が紙幣に夢中になっている間に、私はコートも脱がずにトイレに行き、中から鍵を掛けた。 ボロ家にお似合いのボロいトイレは鍵までボロくて、今時ねじ込み式の鍵は、鍵穴が広がってまるで用を成さない。 それでも形ばかりの施錠をせずにはいられなかった。 トイレなんて家族しか使わないのだから、今までその鍵の存在など少しも気にも掛けなかったのに、新しい物に付け替えなかった事を酷く悔やんだ。 男の気配は追って来ない。まだ札束に夢中なのか。 震える手で携帯電話のボタンを押すと、相手はすぐに出た。 「もしもし」
父とあの男がいつどこで出会ってどういう付き合いだったのか、私はまるで知らない。 父と私が暮らすこの家に、父の死ぬ少し前から出入りするようになり、父が死んでからは我が物顔で振舞うようになった。 「父さんが死んで、保険金やら遺産やらが手に入ったんだろ。俺だって何くれと面倒を見てやったんだ、取り敢えず100万ぐらい貰う権利はあるだろ」 そう言って、図々しくも金銭を要求したのだ。 少なくとも私は、父に言われて食事の支度程度の面倒は見てやったものの、見て貰った覚えは無い。 仮令父が世話になった事があったとしても、恩があるのは父であって私ではない。 闘病生活の永かった父には遺産など無かったし、雀の涙ばかりの保険金は葬式で殆ど消えている。 こいつに金をやる義理も、やる金も無い。 どういう出自の男か知れないが、断れば何をするか判らない。 それにこの手の要求は、エスカレートするものと相場が決まっている。 私は警察に相談した。
待機していた警察官が家の中に踏み込み、男を拘束して連行してくれたのを見届けて、やっと安堵の溜め息が出た。 保湿を謳った口紅を塗っていたが、緊張のせいで唇はすっかりからからに乾いていた。 「有難うございました。でもあの男、出て来たらきっと……」 「そうだな、逆恨みするだろうな」 顔馴染みの刑事が眉根を寄せた。 子供の頃から私を知っていて、今回も親身に話を聞いてくれた人だ。 男の私が女装をしていても、決して差別的な素振りは見せないでいてくれた。 だから私も安心して相談出来たのだ。 「やはりそう思いますか。私もお礼参りが怖くて。多分、ここを離れる事になると思います」 「その方がいいだろう。体に気を付けてな」 刑事は私の肩を軽く叩くと、同僚と一緒に出て行った。 私は頭を下げて、もう一度礼を言い、後姿を見送った。
その後裁判が行われ、多分私は証人として出廷したのだろうが、あまり良く覚えていない。 判決の時でさえ、傍聴には行かなかった。 あの男の視界に入りたくなかったのだ。 なるべく早く、あの男の記憶から消えてしまいたかったのである。 「大変だったわねえ。これからどうするの」 女装仲間が集まって、送別会を開いてくれた。 「SEは辞めて、他の仕事を探すわ。あの家を売って、遠くに行こうかな。東京とか大阪とか」 アルコールが入ったせいもあり、ついそんな事を口走ってしまった。 あの男は、自分を嵌めた私を許さないだろう。 逆恨み気質は死んでも治らないのだから、あの男には死んで欲しいところだが、残念な事に日本の法律では恐喝ぐらいでは死刑にならない。 それなら私が逃げるまでだ。 木を隠すなら森に、砂粒を隠すなら砂漠か海岸に、自分が隠れるなら都会の雑踏だ。 そう考えていたのが、つい口から出てしまった。 少しでも手がかりを残さないためには言ってはいけなかったのに。しまったと思ったが遅かった。 「大阪の方がいいかな、人情の街だし」 慌てて思ってもいない事を付け足した。 女装した男達が、大阪かあいいわねえとキャッキャキャッキャ言い出したので、少しホッとした。 何のスイッチが入ったのか、1人だけが、 「ええっ、そんな知らない土地に行くより、ここでスナックでも開業したらいいのに。家を売ったお金でお店やりましょうよう」 と言い出した。 何故他人の家を売った他人の金で店を「やりましょう」という話になるのか、全く理解に苦しむが、取り敢えず苦笑してやり過ごした。 1人でヒートアップするそいつに、年長者が窘めていたが。
証拠品として押収されていた100万円が返って来たので、それで永代供養を頼んだ。もうここには戻らない。 誰にも行き先を告げずに、私は町を出た。 不動産屋に渡りを付け、書類関係は郵送で、ボロ家付きの土地が売れたら銀行口座に振り込んでくれるようにしておいた。 契約が完了して片が付いたら、口座は閉じてしまおう。 私は東京にやって来て、2度と御免と言っていたSEの仕事に再就職した。 そして女装を止めた。 自分1人の愉しみとしても封印し、ウィッグも化粧品も捨てた。 これまでの自分とは違う自分になって、復讐者の目を欺くためだ。 それでも、お気に入りの赤いコートだけは捨てられなかった。
四六時中を生まれ持った性の男として過ごし、その生活に慣れようと努力していたある日、クローゼットの整理をしていたらコートが出て来た。 安物の合皮がテラテラと光って、私を誘う。 一度誘惑に負けると、後は坂を転げ落ちるようだった。 百均でウィッグと化粧道具を買い揃え、安くて可愛い服を買い、久し振りに変身した。 赤いコートを羽織ると、完璧だった。 東京に来てからずっとスーツ姿で、目立たないようにと地味に過ごして来たストレスを、一気に発散するように、私は夜の町に躍り出た。 足許から放つヒールの音が、何と心地良い事か。 見て。私を見て。注目して。 いい女でしょ、綺麗でしょ。 とてもいい気分で闊歩していると、声を掛けられた。 ナンパされるなんて、私もまだまだ捨てたもんじゃないわね。 いい気分でホテルに入った。 ハンドバッグと一緒に、弾みを付けてベッドに腰掛けると、男が卑猥な事を言って来た。 夜の街の雑踏では気が付かなかったが、この顔、この声。 間違い無くあの男である。 冷水を浴びせられた気分になったが、相手はまだ私に気付いていないようすだ。 顔を覗き込もうと屈んで来たので、咄嗟に髪で隠すように顔を背けた。 「そういうのは好きじゃないの」 男はまた下卑た事を言い、何やら1人で笑いながらバスルームに消えて行った。 ハンドバッグを握り締め、シャワーの音を確認すると、私は速やかに部屋を立ち去った。 帰り道とは反対方向の駅に寄り、トイレのゴミ箱の底に、赤いコートを丸めて突っ込んだ。 次のごみの日には、買ったばかりの服も化粧品も全て捨てた。
そして私は完全に女の格好とは縁を切った。
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