天上天下唯我独尊

2006年12月12日(火) 生きてこそ?

最近聞かないけれど、苛めによる子供の自殺は、一段落着いたのだろうか。
それとも、報道機関が規制でも敷いているのか。
毎日ニュースで聞いていた頃には、
「子供の好きなようにさせてやって欲しい。学校に行きたくなければ、行かなくてもいいではないか。親としては、子供が生きてさえいてくれればそれでよい」
などと頓珍漢なコメントを耳にした事もあった。
聞いていて、こんな事言う奴は、碌な子供を育てられないな、と思った。

私には子供はいない。
しかし、
「子供もいないくせに、偉そうな事を言うな」
という人には、そりゃ違うだろと言いたい。
子供がいなけりゃ教育を語っちゃいけないのか?
それじゃあ子供のいない人間は、教職に就けなくなる。
逆に、子供はいるのに満足な人間に教育出来ていない親だって、ごまんといる。
産んだだけが偉い訳じゃないだろう。

さきほどのコメントに戻る。
何が頓珍漢なのか、客観的に考えてみた。
大切なのは、子供の好きなようにさせるのではなく、子供の話をよく聞いてやる事ではないだろうか。
その上で、考え得る限りで最善の方法を提示し、状況を打破出来るようにしてやる事だと思う。
「学校なんて、行かなくたって死にゃしない」のは確かだが、だから行かなくてもいいというのは明らかにおかしい。
「したくないからしない」では、「働きたくないから働かない」大人になってしまうぞ。
ただでさえ、ニートだの引き籠もりだのが社会問題化しているのだ。(個人的感想としては、社会問題というより、元は家庭の問題だと思うのだが)
登校拒否の延長で引き籠もっているのだって多いのだ。
「生きていればそれでいい」などというのは、親のエゴに他ならない。
そのエゴだって、いつまで続くか、見物である。
現代社会で普通に生きるには、お金がかかる。お金をかけずに生きる方法だって勿論あるが、何も生み出せない人間には、到底無理な芸当だ。
いずれ親は歳を取り、引き籠もりの子供は重荷になる。
親が面倒を見切れなくなって、生活保護でも受けるようになれば、社会のお荷物だ。
(面倒だが一応断っておく。生活保護受給者全てが社会のお荷物ではない。甘えてばかりで、自分で何とかしようとしない、気概の無い奴の事をここでは指している)
親は子供の幸福を願うものだ。
しかし、「この子さえ幸せならそれでいい」というのではいけない。
気持ちはわかるが、「この子さえ」と願われた子供は、「自分さえ良ければ」という、自己中心的な子供になってしまう。
最近は、他人の迷惑を考えない親子連れが多いように思う。
自分の幸せは、他人の不幸の上に成り立ってはいけないのである。


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春 紫苑 [MAIL]

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