uchie◎BASSMAN’s life

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2003年11月09日(日)
■落瀬 学

彼は作詞、作曲、ベース、歌、パフォーマンス、すべての才能を持ち合わせていた。
1998年11月9日。次の日の新宿JAMでのライブを控えて、僕は部屋でベースのメンテナンスをしていた。
ベースの師匠、マナブさんに教えられた通り、古い弦を鍛えなおしてブライトな音を作っていた。ベースは彼から譲り受けたナビゲーターのVOXタイプ。白ヴォックスと呼んでいた。90年、BELLETSがメジャーデビューしたときモニターになって制作されたものだ。お前なら使ってもいいぞって言って渡された。それを使えばなんだか勇気が沸いて、ベースがまだまだヘタな僕はどんなステージに上がっても怖くはなかった。マナブさんみたいに弾くのが大好きだった。ただそれだけでよかった。

張り替えている途中、携帯が鳴った。向こうから悲痛な声が聞こえた。様子がおかしかった。僕が知らない間に何かが起こり、世界はもう変っていた。
「マナブさんが亡くなった…」
薮蛇古屋のライブが8日に渋谷ラママであった。僕は楽しみにしていた。何ヶ月かマナブさんに会ってなかったから行きたかった。でも行けなかった。なぜ行かなかったんだろう。カノジョの言うことを振りきって行けばよかった。この世にまた今度というのはないんだということをこのとき知った。
ラママのライブの後、彼はいつものようにメンバーと打ち上げで飲んでいた。家に帰ったのは夜中だった。そして朝、彼はもう目覚めることはなかった。都内ライブハウスには悲報が伝えられた。
当時、薮蛇古屋のベーシストとしてで活動し、いつメジャーに行ってもおかしくない人気と実力を持ちつつも、自分で歌うバンドを作り始めていた。BUG POPSはすでに数曲を仕上げ、ライブの準備にかかっていた。
「俺はもうツーアウトだからな」
屋根裏でミッシェルガンエレファントと対バンのとき、言っていた。BUG POPSは彼の最後の賭けだったに違いない。彼の残した曲を聴いて思った。ベーシストが趣味で歌うバンドを作ったのでは決してない。日本の音楽シーンに立つ自信と覚悟があったに違いない。
「私の詩集を買ってください」
落瀬学、最高傑作のこの曲は幻となった。
この日から彼のことを思い出さない日はない。死というものを、僕は初めて真剣に考えるようになった。真実を受け止めるには随分時間がかかった。
そして、人と会う時間がとても大切に思えるようになった。“また今度”はないんだ。