立ち止まったとき、自分が生きている意味を僕はいつも考えている。 それがわからないと次に進むべき方向が定まらないからだ。
そして、今も考えている。 生きている意味を見失っている。
生きてきた意味はあった。 あったと思いたい。 僕が生きていたから、彼女はやりたい事に挑戦できたし、僕と関わった人たちに生き様を見せる事ができたと思いたい。 それなら、僕にも生きてきた意味はあった。
じゃあ、生き続ける意味はあるのだろうか。
たとえばアニメを見たり、今もロケみつを見たりして勇気をもらう事はたくさんある。明日には水樹奈々も紅白に出る。 でも、どれだけ勇気をもらっても、僕は彼女たちのように与える側にはなれないのだから、そうやって生かしてもらう事に何の意味があるのだろうか?
トートロジーに近いかもしれないが、生きている意味がないのなら、生きている必要はない。もちろん、生きている意味がないのなら、死ぬ事にもさしたる意味はない。
今はただ、それだけの事だ。 だから、何も気にせず楽しい事だけ追いかけて散財すればいいだけの事なのに。 何を躊躇っているのか。
身代わり羊としての生き様を受け入れたのだから。 その役割を終えたなら、僕が生きている事に意味などないのだ。
僕が生きる事に意味があるとすれば、それはこれまでの10年に区切りをつけて次のステージに移るのだろうけれど、そうするには足枷が多すぎて動けないし、それを振り切る程の力も残っていない。
自ら受け入れた役割を終え、次のステージにも行けないのなら、僕が生きている事に意味なんて、やっぱりないのだ。
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