知識と才能はある。
三十代を迎えようという年になって、知識と経験がまだまだ上乗せできるのだと実感させられる。古い知識が忘却されず新しい知識が上乗せされ、可能性という名の才能は伸びていく。
だが、才能があるからといって発揮できるとは限らないし、それを認識した上で行動して生きてきた。そのうえで気力が尽きたのだから、僕が僕のために才能を有意義に生かす事は難しいと思う。
やはり、残された道は哲学者や賢者への道しかないのだろうか。僕は僕でしかないというアイデンティティーの確立が、僕が結局は何者にもなれないという絶望を後押しする。
だから、僕は何者にもならずに哲学者や賢者になるべきなのかもしれない。それは「大きな郵便局」であったり「知識を授けるもの」であったり。それは自分ではない誰かのためにあるデータバンク。
能動的に知識や経験を広めてくれる、とても便利なデータバンク。もちろん、誤配や誤読の可能性をはらみながら、そのリスクや責任も引き受けてくれる便利なデータバンク。
それがつまり教養や評論であったのだろうと思う。今後、ネットワークは知識の局所化を加速するだろう。情報の伝達速度が上がれば深化は早まる。そして、深まる専門性は加速度的に外部を遮断する。一般からは見えなくなるし、加速度的に深まる専門知識を理解する外部はいなくなる。
きっと広く一般教養は崩壊して、局所的な専門知識の爆発が世界を刷新する。そして、大多数が理解できないまま世界がそれを受け入れるという現象が一般化するだろう。
理解なき受容は感情が優先される。 あるいは貨幣価値が絶対の指標であるかのうように振舞う。それは金本位制のように根拠があるわけでもないのに。 それは危険なのだ。
だから、何者にもなれない僕がコミュニティー間を流浪して情報を拡散させる。それはあたかも全ての情報を相対化させるように見えるが、外部の指標を持ち込む事で絶対的な評価を試みようとする行為なのだ。
局所化する専門知識を吸収できる教養を身につけながら、どこにも定着せずに独り流浪する、そんな真の哲学者になれたら、きっと僕の魂は救われる。
それはとても寂しい事で僕は決して救われないかれもしれないれど、人身御供としての人生を受け入れてきた僕になら出来るかもしれない。そして、それを受け入れるなら、この10年にも意味があったのかもしれない。
そう思うから、保身するのはやめて散財する事にした。
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