この10年間は寂しいという感情に弄ばれた10年間だったのかもしれない。
だから、車ではなくバイクだったのかもしれない。今はまだ孤独とバイクがどう絡み合うのか、論理的な思考は築けていない。だが、おそらくは孤独から出発してバイクに到るのではないかと感じている。
彼女が僕のもとを離れてから日に日に強く僕を蝕んでいくのは寂しいという感情だ。
真の理解。 本質を理解すること。 万人にそれを求めているわけではないけれど、それでも近しい人にはそれを求めている。 特別な何かがなくてもわたしをわたしとして、ありのまま理解してくれる。受け入れてくれる。つまり、愛。無償の愛。 それは刹那的ではあったが、実現しつつあった。 そして、それが消えゆく、弱まっていく感触に僕は焦りを感じたのかもしれない。
「僕はいらない人間なんだ」 という人生態度が、どうやら未だに根本に染み付いてるようだ。 あるいはそれが孤独を受け入れるための手段なのかもしれない。 いらない人間だから誰からも相手にされなくても当たり前。そのロジックによって自分を保っているのかもしれない。 なんと面倒くさい男だ。
さて、そこで思いついた思考実験を一つ。 自分が余剰である事を前提に生きるという方法だ。
僕がなぜ人と違う事をやりたがるのか。 自己を余剰にしたがっているのだろうと感じる。 高度経済成長の後に来る消費社会が、記号化と差異化の渦の中にあるとすれば、そこを生きるダメ人間である僕に価値を与えるには、それが記号的に差異のある余剰とするのが最も効率的というか確実だと実感しているふしがある。
そう、僕は基本的にはダメ人間なのだ。 社交性も低く、真面目にコツコツと生産するのにも向いていない。 極度の面倒くさがりで、熱しやすく飽きやすい。 生産よりも消費に向いているにも関わらず、社交性やバイタリティーがない。
だから、僕は自分を他とは差異化する。 差異化された余剰に価値を与え消費する事で動き続ける経済。 所属する環境の中で常に自分を余剰として差異化し、自らを消費の対象とする事で孤独を紛らわせて生き延びる。 そして、集団に同化して差異化が困難になると別の環境へと移る。 そうやって僕は生きてきたのかもしれない。
それはそれで今後も可能な気がする。 同化ではなく差異化を目指すという点で孤独が消滅する事はないが、自分がダメ人間で不必要な人間だという前提に立てば、孤独である事もまた必然であるから、その上で自分に価値を与える方法としては悪くないと思うし、現に僕はそうやって価値を作ってきた気がする。
とりあえず、それで生きていける。
あとは無償の愛を実現できる可能性がどこにあるか、だ。 現在の僕では差異化によって生まれた価値を売り物にして、僕を買ってもらうしか他者を引き止める方法が無い。 そして、消費しつくされると捨てられる。 やばい、書いてて泣きそうだ。 それはともかく、今の方法論はやはり原理的に孤独に耐える事でしか成立しない。 危うい。 つまり、常に差異化し続けなければ、消費されるよりも早く差異化しなければ、僕の価値はなくなってしまう。だから、コミュニケーションを避けるのか?差異が消費される速度はなるべく遅い方がいいもの。
だから定期的に揺り戻しで情緒不安定になったり寂しくなったりするのだろうか。
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