人と話すことは大事です。 誰かと世間話ができるだけで、一人で塞ぎ込んでいるよりよっぽどいいです。いや、むしろ普段通りの事をする方がいいです。
文学の授業で芥川の「或る日の大石蔵之助」を読んだ。そこからボクが読み取った蔵之助像というのは、他人の評価が全く自分の意図している所を捉えていないことに落胆する、自分の本当に言いたかった事を理解してもらえずに苦悩する、そういう「天才になりきれない秀才」みたいな人物像で捉えていた。
が、授業で先生が解説するところによると、つまりは芥川の書いた蔵之助像は、「障子で閉めきった部屋」という閉ざされた、つまりは自らの内なる価値観のみに準拠して満足を得ている、自閉的な人物像であり、その部屋の中に「現実」が侵入してくる事によって、内で完結していた満足は追いやられてしまう、という筋書きだった。
なるほど、そういう見方があったのか、と率直に思ってしまった。つまりは、ボクが捉えた蔵之助像は何の事はない、ボク自身が内在している問題だったのだ。そして、それは現実によって打ちのめされるべき性質を持っていただけのことだ。で、それは結局、自閉的だ、という、ボクにとっては、批判的な言葉によって簡単に自覚された。
一人でウジウジ悩んでいても埒があかない、というだけの事だ。つまり、ボクがよく沈んだときに到達する思考、「とにかく動くしかない」という思考にやっぱり今回もたどり着くような気がする。T中さんの作業を(ジュースを買いに言ったら声を掛けられたので断れなかった)手伝いながら、冒頭の事を思った。
ただ、今のボクにはバイクはありません。Kさんとの事を進展させる知恵も勇気もない。そして、仕事もない。ならば何があるのか、と言われればそれは書くことだけ、という結論に達してしまうのでしょうか。
なんだが、今回の日記はキチンと内面の吐露に終始出来たような気がします。ボクはただ、自分の事を知ってほしい、聞いてほしい、そんな寂しがり屋の人間なんです。そんなボクにとって、気軽に、多くの人に公開しているような気にさせてくれる、インターネットと私小説というツールはとてもありがたいのです。
ボクはその、どうしても起こってくる自分を知って欲しい、という欲求を解消するための手段として、それが不純、あるいは歪曲された形ではないだろうかと思いながらも頼っているのです。
でも、同時に「ボクはそれを自覚的にやってるけどね」という、かろうじて他に対するアドバンテージを保とうとしている意図もある発言ですが。
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