**Secret**..miho
all alone
2004年12月01日(水)
実は、私がこのHPを開設したのは、退院して1年半も後の事でした。
ちょうど過去の自分を忘れかけていた頃だったので、ある程度は、
前向きなプラス思考で生きられていた頃だったと思う。
だから、まさか、こんな過去のお話をするなんて思ってもみなかった。
本当は、ずっと封印していたら完全に消し去れるものだと信じていた。
きっと、全てを覆い隠せるほど、成長できていたつもりでいたんだね。

HP開設当時は、病気によって得たモノの方が多かったような気がする…
だから、病気の自分でも好きでいられて、笑顔でいられたのだと思う。
病気によって無理強いされた価値観も、少しずつ馴染んでいっていた。
でもね、それは、ただ、過去の自分を遠ざけたかっただけなんだ。
少しも自ら繋ぎ止める事をしようとしなかったから、置き去りにされた
狂気だった過去の自分が、今、再び私の心の奥で泣き声を上げている。


あの頃の私は、とっても悪い子でした。
それまでは、とっても良い子だったけど…
別に豹変したわけじゃないよ。道理に適った事なんだ。
それまで抑え込まれていた自分が、苦しみの果てに溢れ出てきただけ。
ある意味では、メッキが剥がれたとも言うのかもしれない。
そんな自分を、私は、何も知らずに、必死で押し殺そうとしていた。


入院11ヶ月目から、私は免疫抑制剤というお薬を服用する事になった。
「これを飲んだら、今度こそ、病気が良くなるからね!!」
主治医に、そう説得されて、仕方なく服用する決心をした。
本当は嫌だった。良くなるはずはないんだって、知っていたから。
もう自分なんて、どうでも良かったから…もう疲れ果てちゃったから…
生き地獄で生き続けなくちゃいけないのなら、安らかに眠りたかった。

だから、2001年7月31日の夜、翌日からの免疫抑制剤の服用に関する
主治医による説明と親の承諾を得るための面会の直前に私は脱走した。
病院を飛び出し、真っ暗闇の中、ずっと泣きながらうずくまっていた。
遠くから全館放送が聞こえた。何度も私の名前が呼ばれていた…
みんな何にも分かっていないんだ。私は一人ぼっちで、ここにいるよ。
どうか、少しでも、私の気持ちに気づいて下さい。

その数時間後、深夜に内科の医師がパジャマ姿の女の子を発見した。
主治医は自宅に帰らずに、ずっと私の病室で待ち続けていてくれた。
そして、いつもの口癖。「生きていて良かった。」と言った。
病棟の患者さんたちも、私の事を心配して起きていてくれたみたい…
全館放送なんてされちゃって、ビックリさせて、ごめんなさい。
それでも、私は、主治医の透かしたような笑顔が何だか腹立たしくて、
ちっとも反省しようとしなかった。ちっとも笑顔でいられなかった。

ご飯なんて食べたくなかった。だから、栄養点滴に繋がれた。
体力の限界に挑戦しちゃダメよって言われた。
だから、点滴を引っ張りながら、疲れ果てるまで歩き回った。
そこで見つけた藤棚に座り込んで、ある事を思い付いた。
別に自ら針で刺さなくても、血は出せるんだ。理性が吹っ飛んだ。
点滴のチューブの接続部分を外せば、自然と逆血してくる。
地面にポタポタと流れ落ちる真っ赤な自分の血を眺めていた。
アリが一気に集ってきて、私の血で溺れそうだった。バカだなぁ…
その血には、悪の病魔が潜んでいるんだぞ。。しばらくして、
通り掛かりの療法士さんに気づかれて病棟まで連れ戻され、叱られた。
その翌日、病室でも同じ事をしたら、ベッドのシーツが真っ赤になって
主治医がビックリしていた。でも、特別に何も問い詰められなかった。
しばらくして、貧血になった。原因不明の発熱も続いた。

ちっとも効かないお薬なんて飲みたくなかったから、辞めた。
飲んだフリをして、引き出しの中に溜め込んでいた。
ステロイドの服用を急に辞めたらショック状態になると言われたから、
試してみたけど、特別に何の変化もなかった。うそつき…
病室に居たくなくて、病院玄関のベンチに座って一夜を過ごしたり、
鍵が掛けられた屋上の扉の前に座り込んで過ごしていた一夜もあった。
鍵が閉まっていて良かった…進入できていたら飛び降りていたと思う。
筋力を疲労させたらダメと言われたから、病棟の階段を上り尽くした。
なかなかくたばろうとしない自分の身体に苛立ちが募っていった。
免疫抑制剤を服用しているから、グレープフルーツジュースを飲んだら
ダメと言われたから、売店でグレープフルーツジュースを買い込んで
飲み続けてみた。血中濃度が上昇していくのを感じ取る事ができた。
でも、すぐに血液検査でバレてしまい、主治医から厳重に注意された。
「あなたは医学の知識なんて何にもないんだから…。」と言われて、
ますます腹立たしく思った。ますます笑顔を失っていった。

もうじき21歳になるんだ。私の20歳は何だったんだろう…
成人式にも出席できなかった。ずっと病院に監禁され続けていた。
快方に向かいもしない病気を負わされて、何を望んで生きればいい?
疫病神な自分に、この先、一体何ができると言うの??
どんな生き方が残されていますか?どうか私に指標を与えて下さい…
どこか、ここではない遠い場所へ行きたかった。自由になりたかった。
歩いていると息切れがして苦しくなるから、電車に乗る事にした。
パジャマ姿でスリッパを履いたまま、電車に乗り込んだ。
大学へ行った。広島県にも行った。会いたい人にも会いに行った。
駅前の本屋へ自分の病気について調べに行ったりもした。
近所の薬局へ「禁忌薬」を探しに行ったりもした。
グッタリで病院に戻って来ても何事もなかったかのようにゴマかせた。
みんなバカだ…私は、もっとバカだ。それから、しばらく寝込んだ。

2001年8月5日、21歳のバースデーの当日、私は絶望した。
どうして病院のベッドで寝込んでいるの?病気は良くなっているの?
免疫力が低下しているからって、病室の外に出る事も禁じられていた。
私は何のために生きているんだろう。幸せって、どんな事を言うの?
今は、辛いの?苦しいの?悲しいの?ううん、とっても寂しい…
でもね、寂しい気持ちを、どうしたら寂しくないようにできるのか、
分からなくて。だって、ここには私の嫌いな自分しかいないんだもん…
だから、憎しみしか生じてこないよ。あったかい居場所を求めていた。
私じゃない人と一緒に居られたら、少しでも自分を忘れられるかな??
そこに、真の幸せが待ち受けているような気がするよ。

その日の夕方頃、親友に電話をした。恋人だった元カレではなく…
当時の私には、自分から甘えられる人なんて存在しなかったけど、
彼女になら、ありのままの自分を曝け出す事ができると思ったから。
今でも、その時の事を覚えているよ。夕食後「今すぐ会いたい」って、
「病院まで来て」じゃなくて「駅の時計台の前で待っていて」と言って
私は自分で点滴を抜いて「大好きな人に会いに行って来ます。」と、
置き手紙を残して病院を去った。駅まで徒歩で20分くらい…
外は真っ暗だったから、どんな姿でも恥ずかしくはなかった。
無我夢中で歩いた。駅に辿り着くまでは、立ち止まりたくはなかった。
その親友とは、すぐに会う事ができた。すごくビックリしていた。
でも、咎める事もせずに、ずっと黙って私の話を聞いてくれていた。

このままずっと一緒に居たかった。離れたくなかった。
今でも、そんな感情に襲われる時が多々あるよ。
誰かに自分を繋ぎ止めていて欲しかった。自分自身では無理だから…
ふわふわ揺れて消えてしまいそうな自分を、縛り付けて欲しかった。

からくり時計が9時を知らせた。たくさんの人たちが集まってきた。
その中に見慣れた顔が…いきなり、お父さんが目の前に現われた。
すごいね。。なんで私の居場所が分かっちゃったんだろう…親バカだ。
非難されるかと思っていたら、ホッとしたような顔つきだった。
病棟では警察沙汰になる寸前で、常に穏和だった主治医も、さすがに
かなり立腹していると知らされた。でも、ちっとも恐怖ではなかった。
ちゃんと謝るように言われたけど、絶対に謝るもんかと強気でいた。
私は、私の生きたいように、生きたかっただけなんだ。
誰にだって、持ち合わせている衝動でしょ??

その後、お父さんの車で、親友も一緒に病棟まで付いて来てくれた。
車椅子の患者さんが、杖をついて私を捜し回ってくれたみたい…
元カレから「何バカな事をしたんだ!!」と怒りのメールがあった。
お母さんが「大好きな人」を元カレだと勘違いして、元カレの自宅に
電話を掛けたらしい。あなたなら、私を救う事ができていたと言うの?
寂しくて死にそうな時に側に居てくれた事なんて一度もないじゃない…
病室の前には、号泣していたお母さんと、心配そうな表情をした
看護婦さんたち、患者さんたち、医師たちが呆然と立ち尽くしていた。
そこに、主治医の姿はなかった。会いたくもなかった。
もう、一人にしておいて欲しかったから。涙しか流れて来ないから…
もう、私は、あなた方が思っているような良い子ちゃんではないから。

しばらくして、主治医が私の病室まで駆け付けて来た。
いつもの笑顔はなかった。困惑した表情で思いっきり説教をされた。
そして、いつもの口癖。「生きていて良かった。」って…
でも、初めて、その言葉に温かみを感じたよ。嘘じゃないと思った。
いつもは透かしたような笑顔で「大丈夫」って、私を元気づけられた
気でいて、私の事なんて微塵も理解できていなかったくせに…
でも、その時、初めて、自分を理解してもらえたような気がした。
私ね、本当は、先生の温もりが欲しかったよ。先生が大好きだった…
ずっと、寂しいって、言いたかった。救いを求めていたんだよ。
でも、先生は、いつも「大丈夫」って言うだけで助けてくれなかった。
私が欲しかったモノは、そんな薄っぺらな優しさなんかじゃない。
本当は大丈夫じゃないんだって、解ってもらいたかったの。
でも、分からなくて…どうやったら素直な気持ちを伝えられるの??
だから、抗う事しか、泣く事しか、出来なくて…笑顔も失ったの。

その時に、初めて主治医からお手紙を受け取った。
その前に、私が主治医に宛てて書いたお手紙のお返事だった。


主治医が今でも私の涙に敏感なのは、当時の私の事を知っているから。
いつも両手を握って慰めてくれるのも、あの頃と全く同じだよ。
私は、言葉で自分の素直な気持ちを表せなくなってしまっていたから。
心を開いていないんじゃなくて、分からないからなの。
だから、自分を理解してもらいたいって願う事もしなくなった。
そのうちに、自分でも、自分の事を理解できなくなっていった。

過去の自分を完全に押し殺せたつもりでいた。
それなのに、今でも当時のままの自分で、生き続けているよ。
本当は、忘れる事なんて、消し去る事なんて、
過去の自分を完全に否定しない限り、できないんだ…

退院直前、抗鬱剤の服用を始めた時に、主治医が言った。
「精神症状は、入院が長引きすぎた事が原因なのでしょうね…」
明らかに丸一年間の監禁生活が、私の人生を、私の人格までも変えて
しまったのだと、その時点で、もうすでに気づいていた事なのに、私は
そのまま何事もなかったかのように、生き続けようとしてしまった…
「ありのままの自分」を、御座なりにしてしまった。…
退院さえすれば、再び以前の元気な自分に戻れると信じていたから。
でも、完全に取り戻せるはずはなかったんだ。
ずっと思い描いてきたシナリオの主役には、もうなれない。
逸脱したレールに再び乗る事ができたという錯覚に翻弄されていた。
矛盾だらけの自分に答えを見出せずに、ただ漠然と生きていた。
遠ざかれば遠ざかるほど、手に負えないものとなっていく運命だった。

2001年9月1日、退院。

最も悲しかった事は、病気が治らなかった事じゃない。
最も寂しかった事は、笑顔を失ってしまった事だった。


今でも解らずにいるよ。今でも充たせずにいるよ。
今でも求め続けているよ。今でも泣き続けているよ。

私は、何のために生まれて、どうして今を生きているんだろう…



m a i l



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