♡恋愛観♡ |
2003年12月27日(土) |
今日は私の恋愛観について少しだけお話をしようと思います。
高校時代、私は英語の教師に対して本気で片想いをしていました。今思えば、これまでの人生の中で、この片想いは胸をときめかせた最も大きな恋心だったと思います。他にも片想いや両想いはいくつかありますが、この片想いに関しては、物心が付いてきた盛りの時期だったという事もあって、とても鮮明に記憶に残っています。そして、それは片想いであったにも関わらず、その苦しみに劣らないくらいに大きな幸福感を得る事ができました。
恋愛って、お互いが愛情で結ばれている事だけが幸せなのではなくて、自分が抱いている相手への愛情の大きさに価値があり、そこに幸せがあるのではないかと思います。だから、私はこの片想いに対しても、そこに幸福感を見出す事ができたのだと思います。例え、その恋心が実るような事はないとしても、決して救われないという事がないように、そこにはちゃんと幸せもあるのだと思うのです。相手を密かに愛するという気持ちこそが、幸せの源であるのだと…もちろん、両想いに越した事はないのですが(*・_・*)ゞ
高校卒業…それはその先生とのお別れも意味していました。当時、その先生は隣のクラスの担任でした。そのクラスには親友もいて、しょっちゅう遊びに行っていましたが、卒業式の日に先生に寄せ書きをプレゼントする事になって、違うクラスだったけれど、私もこっそりと書かせてもらう事にしました。英語の先生だから英語のメッセージがいいよねぇって、誰かが図書館で英語のメッセージ集を借りてきてくれました。そこには有名な偉人たちの様々な英語のメッセージが紹介されていました。私の友達は英語の慣用句やことわざを書いていました。
そして私が選んだメッセージは…英語の文は忘れてしまったけれど、だいたい次のような内容のメッセージでした。「愛される事よりも、愛する事の方が勝っている。」これは、私がその先生へ贈った告白のメッセージでもあります。私は先生の愛情をこれっぽっちも求めてはいませんでした。ただ、それよりも先生への愛情に意義を感じ、それを日々の生きがいや活力に変えていき、そこに喜びや幸せを見出していました。もちろん、そこには遣り切れない極限の苦しみも伴いましたが、それは相手の愛情の欠如から生じるものではなくて、相手への愛情の大きさによる戸惑いから生じるものでした。
そして卒業式の後、偶然に職員室でその寄せ書きを読んでいた先生と出くわしました。どきどきしながらも、最後だから先生の反応を見てみたいという思いもありました。私の気持ちはちゃんと素直に先生に伝わってくれたのだろうか…私の存在に気付いた先生は一言「ありがとう。」と微笑んでくれました。違うクラスの生徒なのに…名前の部分は「miho」と書いただけだったのに…私のメッセージだと分かってくれた、それだけでも幸せなのに、その上、私の気持ちまで感じ取ってくれた…その時、私は3年間、その先生を愛し続けてきて良かったと心から思いました。片想いでも、ちゃんと報われた結末でした。
このように、私の恋愛観においては、「愛される事」ではなくて「愛する事」に意義を感じています。例え、恋人同士という肩書きを持っていても、果たしてそこに相手への際限のない愛情が存在しているのか…そこに本当に幸せかどうかがかかっているのだと思います。もちろん相思相愛ほど至極の幸福はありません。けれど、ただ受身的に相手の愛情を汲み取っているだけの関係だったら、どことなく空虚で満たされない感情になるはずです。それだけで満足だという人も中にはいるのかもしれませんが…。
私は相手への愛情、相手を心底から愛しく思う気持ち、これを常に感じていられなかったら、真の幸せをその恋愛に見出す事はできません。自分から好意を抱けるような相手じゃないと嫌って、ある意味、我がままなのかもしれませんね…けれど、恋愛に限らず全ての事において、受身でいる事は時には楽かもしれませんが、大きな幸せを逃す事にもなりかねないので、やっぱり積極性も大事だと思うのです。特に私は、どちらかと言うと消極的な性格なので…。いつかそのような理想的な恋愛ができたらいいなぁって、心から願っています。
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