♡病院の父♡ |
2003年08月03日(日) |
今日は、あるおじちゃんのお見舞いに、お父さんと二人で病院まで行ってきました。そのおじちゃんは、私と病気はまったく違うけれど、入院中に知り合って仲良くなり、隣同士の病室で約半年間一緒に頑張って闘病をしました。お友達的存在というよりも、まるで病院の父のような存在であり、入院中は何かとお説教をされたり、深夜遅くまで親身になって相談事を聞いてくれたりと、実の父親よりもお父さんらしい存在でした。そんなおじちゃんが、退院後も心不全で何度も倒れて救急車で運ばれるなど、入退院を繰り返しているようなので、夏休みになったという事もあって、改めてお見舞いに行く事にしました。それまでは、一度、再入院をした時に初めてお見舞いに行ったきり、たまぁにメール交換をするくらいの関係だったので、ざっと約1年半ぶりくらいの再会になりました。
私が退院する頃のおじちゃんは、足の神経異常のために杖を使ってでしか歩く事ができなかったけれど、入院当初は車椅子だったという事を考えたら、リハビリの効果がすごくあったと言えます。誰よりも頑固で負けず嫌いなおじちゃんで、最初はとても近寄り難い存在だったけど、本音でお話をするようになってからは、その考え方や人生観に心を打たれ、だんだんおじちゃんと一緒に過ごす時間が楽しく思えてきました。おじちゃんにはとっても仲よしな奥さんがいて、常に二人で支えあって生きているような力強さをいつも感じていました。そのおばちゃんも、私にとっては病院の母のような存在で、入院中は、おばちゃんがおじちゃんの所へ来る夕食の時間がとっても楽しみで、消灯時間までの食後のお散歩が、私の入院生活の生きがいの一つでもありました。
今日お見舞いに行ってみると、2年前と変わらないおばちゃんとおじちゃんの姿を見る事ができました。おじちゃんは、暑さのために上着を脱いでおり、頭と眉とヒゲは白髪交じりになり、歯は病気のために数本か抜かれており、身体は骨がくっきり見えるほど痩せ細っており、鼻からは酸素が注入されており、体中には点滴のチューブが巻き付いていました。今日はそれでも調子がいい方みたいで、体を起こしてお話ができるような状態だったけれど、おばちゃんの詳細なお話を聞いていると、それまでのおじちゃんの苦しい出来事が鮮明に浮かんでくるようで、とってもいたたまれない気持ちになってしまいました。366日間入院をしていて、病院や病人には慣れっ子だったはずなのに、退院して2年間も経ってしまうと、日常生活に慣れてしまい、それが当たり前に感じるようになってしまったようです。こうやって、次第に自分が病人であった記憶が薄れていくんだなぁ。今でも、まだまだ十分に病人なんだけど、普通に日常生活を送っていると、ついつい病気の事が頭から離れてしまうようです。
ざっと一時間ほどお話をしました。中には、二年前の入院中の懐かしい出来事についてのお話も含まれており、当時の思いがそのまんまよみがえってくるようでした。ああぁ…私は今でも当時とちっとも変わっていないじゃないか…そう思ってしまいました。当初ほどではないけれど、今でも「死にたい」という気持ちと葛藤する時があります。でも、当初との違いは、今は日常生活という現実と実際に交わっているから…当初は、行く先がまったく見えない暗闇の中だったから…。今は、将来のためにやるべき事と実際に隣接しているから、いくら「死にたい」と思っても、「いや、今死ぬわけにはいかないんだ。」という気持ちが心の奥から生じてくれるから…。当初はその気持ちがまったく現れず、その代わりに、おじちゃんという存在が、当初の私の抑制になっていました。おじちゃんが、私の生に意味を見出してくれたから、「生きていよう。」と思えるようになったのです。
現実を見据えてちゃんと生きていこうと誓って退院したはずなのに、今だに「死にたい。」だなんて思ってしまう事があるなんて…よくそんな事が平気で思えるのか!!真の生と向き合って闘病をしているおじちゃんの姿を目にしてから、そんな自分が腹立たしくなってきました。誰だって、たとえどんな状態であろうとも、生きていたいという願いを持って生きているはずです。私は、ご飯だって食べられるし、自由に歩き回る事もできるし、おしゃれだって一応は人並みにできるし、ちゃんと一通りの日常生活を送って生きていく事ができます。けれど、私の病気の一番の症状である疲れやすさはひどく、何か一つの出来事を通り過ぎるたびに、痛みは感じないものの、かなりの疲労感に襲われます。そのような状態になると、何かをしたくても、ただ寝転がって休む事しかできず、心の中までふさぎこんでしまいます。それで、まともに日常生活を送れない中途半端な状態にいる自分の立場が憎くて、「死にたい」だなんて思ってしまう自分が、とても愚かで弱くて情けなく思えてきました。本当に生きていきたいと願うのなら、どうしてありのままの自分で堂々と生きていけないのか…ありのままの自分を許容できたはずなのに、今でもまだたまにくじけてしまう時があります。けれど、今日おじちゃんと再会できて、そのおじちゃんの強い意志に基づく生き様から、自分の未熟さを改めて感じ取り、再び生きていくという事の意義を再確認しました。今日は、おじちゃんに会えて本当に良かったです。
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