Sun Set Days
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2005年02月16日(水) note.8

 歩道橋の中ほどに立って、眼下を通り過ぎていく車を眺めていた。遠くの信号が変わるたびに固まって流れてくる様々な色の自動車は、遠い未来の機械の魚たちのように見える。オレンジ色の傘は朝から降り続いている細かな雨を受けて、耳を澄ますと雨の音と車の音が混じりあって不思議な余韻を残していく。
 瑠璃は秋用の薄手のコートを着て、オレンジ色の傘を持ったまま、もう長い時間同じ場所にいた。別にこれといって何かをしているわけではない。言うなればただの散歩だった。
 ウィークデイなので修一は会社で働いている。瑠璃は修一の働いている会社のビルを思い浮かべる。修一はオフィス家具を作るメーカーに勤めていて、効率のよいワークスタイルを確立するための快適なオフィス空間づくりをプロデュースしているらしい。本当はね、と修一は秘密を打ち明けるように囁く。働いている社員たちのモチベーションが高ければ効率はあがるんだけどさ。
 瑠璃は修一の言葉を思い出して一人で微笑んでしまう。瑠璃は修一の持つ穏やかさが好きだった。もちろん機嫌の悪いときもあったが、それでも修一は大きな森のようにすべてを包み込んでくれる。修一に出会えたことは、この広い東京で奇跡のようなものだ、とさえ思う。
 子供の頃から、本当に大切な人に出会いたいとずっと願ってきた。そう思える人と出会えるまでは、心も身体も許さないと決めていた。女友達はその考え方を笑い、自分自身おかしいのかしらと思うこともあった。けれども自分は器用な方じゃないのだ。瑠璃はそう思って、自分の決めたことを守り続けた。
 修一とはじめてセックスをしたときのことを忘れられない。修一との間には思い出すことのできるエピソードがたくさんあって、瑠璃はそのひとつひとつ思い出しては穏やかな幸福に浸る。そして、それらの思い出が、これからも起こりえるのだという可能性に胸が締め付けられそうになる。
 瑠璃はだからいつも泣きそうになる。自分の感情がどうしてもうまく制御することができなくなる。ありとあらゆる感情がいま自分の周りで起こり続けている奇跡にすがりつきたくなってしまうのだ。
 感情の透明で大きなコップを、感情の水が満たす。その水は簡単に溢れてしまう。選択肢、と瑠璃は思う。もしあのとき、修一がグループ展を開いていた小さな画廊を訪れることがなかったら、夫人が天使猫の絵を見ていた修一を紹介してくれなかったら、オレンジ色の傘を貸さなかったら、たくさんのもしの上にいまの現実が成り立っている。すべてはまるで夢みたいだ。夢が醒めたら私はいまも美大生で、遅い時間まで一人で孤独にキャンバスに向かっているだけなのかもしれない。だからそのときから、瑠璃の持つ傘はすべてオレンジ色なのだ。「オレンジが好きなんだな」と修一は言う。「うん」と瑠璃は答える。オレンジは修一との運命の色だからと、本気で信じているのだ。
 それはある種のおまじないだった。
 瑠璃は遠くに広がる新宿御苑の暗い森を見つめる。街中の音を吸収しようとでもしているような灰色の雲が、暗い森のすぐ上までおりてきている。
これは紛れもない現実だと自分に言い聞かせる。わけもなく嬉しくなったり哀しくなったりしたときには、一人で散歩に出る。特に世界が雨に打たれる午後には、あらゆる感情を冷やす効果が備わっていると信じているから、それにすがって散歩に出る。
 きっと、と瑠璃は思う。幸福と不幸とは深いところで繋がっていて、たとえば愛する人がいる幸福はその人を失ってしまうかもしれない不幸を内包している。だからある種の影のように幸福と不幸とは寄り添いあい、ときどきわけもなく不安になったりするのだ。でもそれはわけもなく幸せな気持ちになることとそれほど違いのあることではなくて、水の上に映る影のように、ゆらゆらといつまでも揺れ続けている。
 公園まで足を伸ばしてみよう。瑠璃はそう思って、ゆっくりと歩き出すのだった。


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 これは、星野夫妻のエピソード「Spica」の一部。
 まるで世界に二人だけしかいないかのような静けさと穏やかさに包まれているこの夫婦の日常は、暖かな乳白色の膜に包まれてでもいるかのように淡々としている。


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 お知らせ

 瑠璃って名前はきれいな名前だと思うのです。
 


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