Sun Set Days
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2003年05月07日(水) |
ロング・サイクリングあるいは不思議な午前中の話(後編) |
山登りは新鮮だった。神社の脇の登山道に入っても、しばらくはそれほど急な傾斜にもならずに快調に歩いていくことができた。その内に周囲はどんどんと白んできて、もうほとんど朝と呼んでもいいような雰囲気になっていた。僕は歌でもうたうような心持ちで、まずは軽快に歩きはじめた(徹夜明けなのに)。
名前を知らない木と、名前を知らない草があって、名前を知らない鳥の鳴き声がした。途中、木々の合間から眼下を見ると、いつの間にそんなに高いところまで来ていたのか、山間に点在する小さな家々の明かりが見えたりもするのだった。その明かりは随分と小さくて、ロールプレイングゲームの実写版のような雰囲気ってこんな感じなのだろうかとか考えたりした。風は涼しくて、汗をかいてもすぐに冷やされてしまうようだった。木々に囲まれたアップダウンが続き、他の誰ともすれ違わなかった。
僕は早朝の山道を一人で黙々と歩いていたのだ。
様々なことを考えていた。自分の二十代がどんなものになるのだろう、ということに思いを馳せたりもしたし、たとえば五年後にはどうなっているのだろうと考えたりもした。他にも他愛のない様々なことを考えた。それから、周囲の自然を注視するように見回したりもした。考えはすべて突き詰めたものにはならずに、漠然とした淡いものであり続けた。基本的には体を動かし続けていたから、熟考することはとてもできなかったのだ。
だから、浅い眠りのときに見る夢のように、繰り返し他愛のないことをぼんやりと思いつつ山を登り続けた。関節が痛むような気がしたけれど、それでも歩き続けた。
しばらく経つにつれて、傾斜は徐々に厳しいものへとなりはじめる。僕は先輩の話していた「登山道が結構しっかりしているから」という言葉はどのような意味合いだったのだろう……と思いながら、一生懸命に歩いた。それは十月はじめのことだったから、気温だってそれほど高くはなかったのに、それでも汗がでてきていた。 途中、岩肌を露出する急な勾配があったり、細長い楕円のような形をした小さな泉がある場所を通り抜けたりもした。湧き水が沸いているところがあって、その湧き水がとてもおいしいのだということを先輩から聞いていたから、僕は喜んでそれを飲んだ。両手を合わせてつくったくぼみに水を受けると、そのまま口元に運んで水を飲んだ。味はほとんどなかったけれど、生々しい感じはした。
気がつくと、4時間ほど登り続けていた。ようやく山頂が近づいていて、岩肌が目立つようになっていた。山頂付近が視界に入ってからが意外と長くて、そこからもうひとふんばりが必要だった。やっと山頂にたどり着くと、そこにはちょっとした広場のようになっていて、何人かの人たちの姿があった。
とりあえず近くの人に「こんにちはー」と挨拶をした。山登りなんか全然したことがなかったのだけれど、なんとなくそういった場所ですれ違う場合には挨拶を交わすべきものといったイメージがあったからだ。山頂にいたのは、若い4人組の女性のグループと、三十代くらいの痩せた男性だった。
4人組の女性は、僕よりも年上に見えた。「どこから登ってきたの?」と訪ねられ、神社の横からだと答えた。 「神社のところから? その格好で?」 4人組のひとり、ショートカットの女の人がそう言って驚いていた。 「ラフな格好しているから、ロープウエイのところから登ってきたのかと思った」 確かに、他に山頂にいる人たちと比べると、いくら動きやすそうとは言っても僕の格好はちょっとラフ過ぎるところがあったのかもしれない。カバンだってナイロン地のリュックサックとかではなく、普通の学校にしていくような肩掛けカバンだったし(しかも地図と神社の前で買ったジュースしか入っていない)。いくら登山道があるとはいえそれなりの高さの山を登るには、準備がなさ過ぎるというところだった。 「神社のところってね、一番距離が長いのよ」 女の人はそう説明してくれた。僕の格好から山登りに精通しているようには見えなかったのだろう。僕は「そうなんですか」と答えた。なんでも、僕が登っていたのと反対側に、車である程度の高さまで行くことのできる道路があって、その先にロープウエイがあるのだそうだ。そして、そこからだと結構すぐに山頂にたどり着く距離になるのだという。 全然知らなかった。先輩の話から、神社の横から登るものだと思いこんでいたのだ。 それから、ちょっと話をした後(どんな話をしたのかはもう忘れてしまった)、その4人組は山頂から降りていった。リュックサックには寝袋とかもt積んであって、かなり本格的な感じだった。
景色はさすがに圧巻だった。雲の塊のようなものや霧のようなものが随所に見えてはいたけれど、それでも基本的にはよく晴れていた。山頂だけあって東西南北どの方向も見ることができて、そしてそれぞれの方向には様々な光景が広がっていたのだった。遠くまで続く山並みや、海、それから遥か眼下に町が見えた。普段、町を自転車で走っているときや歩いているときに、見上げるといつもこの山が見えていた。 自分がその山に登っているなんて不思議な感じがした。それでも今日山に行こうと部屋で思ってから数時間後に、ちゃんと山頂に立っているのだ。正直、途中ちょっと辛いなあと思うところもあったのだけれど、ある程度まで進んでしまったら、後はもう引き返す方が面倒だったし、そのまま登り続けた。それに山頂まで行く途中に辛いことも、ちょっと大げさに人生みたいなものだと考えていたのだった。いろいろと大変なことがあっても、とりあえず登り続けてさえいればいつか山頂に着くだろうし、到着するまで頑張れるのであれば、自分の二十代も頑張れるはずだと根拠もなく思いこんでいたのだった。
風は随分と涼しかった。眠気は奥の方にはあったが、それでも不思議と気持ちは冴えていた。山頂からの景色は気持ちのよいものだった。
山頂の遠くの方にいた三十代の男性が近づいてきたので、今度は彼に挨拶をした。僕らは別々の石の上に腰を下ろし、「気持ちよいねえ」「そうですね」といったよくある挨拶を交わしていた。さっきの4人組同様、全然縁もゆかりもない人だ。 その男性は、自分が山登りが好きで、これまでいくつかの山を登ってきたのだということを話した。それらの山の名前には僕も知っているものがあったし、全然聞いたことのない山の名前もあった。それから、自分はパラグライダーをするのだという話もしてきた。そうなんですかと僕は答えた。 そして、その男性はパラグライダーのすばらしさを一通り語った後、僕に一緒にパラグライダーをやらないかと声をかけてきた。おもしろいんだよ、と。 その申し出については曖昧に答えておいた。いくら自然が気持ちを開放的にすると言っても、山頂でついさっき出逢ったばかりの人にパラグライダーを一緒にしようと勧めるのはちょっと変わっていると言えば言える。別にパラグライダーに興味がないわけではなかったのだけれど、その話題についてはフェード・アウトさせるように別の話題を選んだ。 それから、その男性と10分ほど話し、僕は立ち上がった。 「それじゃあ」 「ああ」 そして、山頂の景色をもう一度ぐるっと見回してから、登ってきた登山道を今度は下り始めた。
下るときには、少し急いで下った。かかった時間は登りの四分の三ほどで済んだから、それが下りであることを差し引いてもハイペースだったのだと思う。正午に近づいていたから、今度は登山をしている人たちとすれ違うことも多くって、そのたびに「こんにちは」と挨拶を交わした。気温は少し上がり、霧のようなものはいつの間にかどこかへ去っていた。
ようやく神社に近づくと、何かの行事をやっていて、着物姿の小さな子供たちや大人たちがいた。山菜採りの老人たちの姿も見え隠れしていた。早朝にはがらがらだった駐車場には何台もの車が停まっていて、脇に停めてある僕の自転車はなんだかやけに端の方に押しやられているように見えた。神社の境内付近には出店も出ていて、道路を挟んだところにある商店や食堂も店を開けていた。
僕はもう一度振り返った。その場所からでも、山頂は随分と高いところにあるように見えた。時間をかけて登り、下りてきたにしても、それでもあんな場所につい数時間前まで自分がいたのだとはあんまり信じることができなかった。不思議な感覚だった。けれども目を凝らすと、あの辺りは確かにさっき通ったと思えるような光景が見えていたりもするのだった。 駐車場で、僕はジュースを飲んだ。飲みながら、どこか達成感のような、充実感のような気持ちを感じていた。二十歳の誕生日を一週間程過ぎた、二十代を頑張ることができますようにという願掛け的な山登りが無事終了したのだ。
もちろん、実際にはそれで終わりではなく、今度は自転車で神社から部屋まで戻らなくてはならないのだった。体はもちろんそのときにはほっとしたのかかなり疲れていたのだけれど、迷わなかったと言えば嘘になるけれど、それでも僕はもう一度自転車に乗りペダルを漕いでいくことにした。タクシーで帰るとか友人に迎えに来てもらうという選択肢も、もちろん魅力的ではあったのだけれど。
帰りの道は数時間前とは随分と印象を違えていた。来るときには、町はまだ目覚めてはいなかった。けれども、帰りは午後で、すっかり活動している町へ変わっていたのだ。車通りは増え、人の姿も多く、いくつかの郊外店や商店街は店を開けていた。進んで行くにつれて、見知らぬ町は見知った町へと変わり、普段の行動範囲へと近づいていく。
帰り道の途中に、当時の恋人の部屋に寄っていった。恋人は部屋にいて(だからたぶん土曜日か日曜日だったのだと思う)、飲み物を飲ませてもらった。そして、バイトが終わってから、自転車で山に行って、神社のところから山頂にまで登ってきたのだという話をした。恋人は驚いて、それからちょっと呆れていた。無茶をしているように思えたみたいだった。 もちろん、客観的に考えたら無事に帰ってこれたからよかったものの、やっぱりそれは無茶な行動だった。
恋人の部屋を出て部屋に帰ってから、2時間ほど眠って、それからまたアルバイトに行った。寝て起きると半端じゃない筋肉痛が僕を襲い、その日のアルバイト(午後6時から深夜1時まで)は散々だった。いくら散歩をしているといっても、いきなりの山登りには足もびっくりしてしまったみたいだった。最後には先輩が、見るに見かねたのか部屋の掃除の大方を変わってくれ、その日のアルバイトはフロント業務が中心になったのだった。
もちろん、その日のアルバイトを終えた後には、僕は本当にぐっすりと眠り続けた。10時間以上眠ったのだと思う。ほとんど眠っていない上に、長いサイクリングと山登りまでをしていたのだから、体はかなり疲れていた。
それでも、そんなふうに突発的に体を酷使するようなことができたのだから、やっぱりあの頃には時間だけはたくさんあったのだろうと思う。 そして、それってとても幸せなことだ。
いまは28歳で、もうじき20代も終わる。30代のときには、今度はどうしようかなとぼんやりと考えてみる。 また別の山に登ろうか(今度はもうちょっとちゃんと準備をして)。 それとも、別のことをしようか。
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お知らせ
山頂で出逢った4人組の女の人たちが、数日後に偶然アルバイト先のカラオケボックスに歌いに来て、実は大学の先輩で、アルバイト先の山登りの話をしていた先輩の友人たちだったということがわかったのでした。 世間は狭いと、思ったりしたのでした。
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