Sun Set Days
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2003年04月05日(土) 風船と花火と

 子供の頃、親戚の家に遊びに行く途中に、小樽に寄った。
 その親戚の家は札幌から小樽を超えてさらに進んだ先にある小さな町で、周囲をたくさんの山に囲まれていた。もう何年も訪れていないけれど、小学校の頃にはそれでも何度か遊びに行って、それはたいてい夏休みで、いつもたくさんの虫の声に囲まれていたのを覚えている。

 車2台がかろうじてすれ違うことができるような白っぽいアスファルトの道路の左右に、妙に背丈のある草むらや山の斜面高くまで続く畑が広がっていた。家と家の間は随分と離れていて、店もほとんど近くになかった(小学校の近くに小さな駄菓子屋があった)。それはまるで、ドラマの『北の国から』に出てきてもおかしくはないような場所だった。

 その親戚の家に行く途中に、どうしてなのかはもう忘れたけれど小樽に寄った。小樽駅の近くにはいくつかの地方百貨店があって、当時はまだそれなりに活気に溢れていて、そのとき僕等家族が寄ったのもそんな店の一つだった。

 子供の頃のデパートの楽しみと言えば、ゲームコーナーくらいだった。親が買い物をしている間、コインを入れて回すルーレットのようなゲームや、コインを落としてコインや飴玉を取ることのできるゲームや、もう少し大きくなるとビデオゲームをするのがとても楽しみだった。そのときもゲームコーナーに行っていた。そしていくつかのゲームをしていたのだと思う。

 親の用事が終わって、駐車場に戻る途中、売り場の隅に小さな自動販売機を見つけた。それは風船の自動販売機で、透明なガラスの向こう側に色とりどりの空気を入れられる前の風船が順番を待っている様子が見えていた。最初にやりたいと言ったのが自分なのか妹なのかはよく覚えていない。ただ、僕らは競うようにして小銭を入れて、風船にガスが入れられるのを見ていた。

 その風船は自分たちがふくらませるのとは違って、どんどん浮かび上がっていくやつだった。それが珍しくて、車の後部座席で手を離して、風船が浮くのを見ていたりした。僕の風船は赤色をしていた。

 いくつかのトンネルを抜けた後に、海沿いの道路から山側へ入り、細い道路を進んで行き親戚の家に着いた。そのときも風船の紐を大切そうに持って(紐の先には、プラスチックの輪のような持ち手がついていた)、親戚の家に入った。そこには別の親戚の子供が2人遊びに来ていて、荷物を置くのも早々に一緒に遊びに出ることにした。もちろんそのときも風船を手に持っていた。お気に入りの物はずっと近くに持っていたかったのだと思う。

 遊びに行くことはとりあえず外に行くことと同じで、僕等4人(僕と妹と親戚の子供2人)は、その親戚の家の前を探検していた(ただ歩くことも僕等にとっては探検だった)。普段の生活の風景である住宅地や商店街はそこにはなく、かわりに圧倒的な緑があった。僕らは意味もなく近くの草むらに足をつっこむという遊びをしていた。そうすると、たくさんのバッタが四方八方に飛び去っていくのだ。本当にたくさんのバッタたちがそこにいて(緑の生っぽいバッタもいれば、茶色の乾いた感じのバッタもいた)、いまならちょっと気持ち悪く思えるような気もするけれど、当時はそんな風には全然思わなかった。どんどん草むらの中に入っていって、どんどんバッタが休んでいるのを邪魔していった。そして、バッタはそれぞれの方向へと飛び去っていった。

 そしてその遊びに夢中になっているときに、片手に持っていた風船を手放してしまったのだ。
 風船は、あっという間にどんどん空へと浮かび上がっていった。背の低い子供のジャンプではもう全然届かないくらいに。
 子供たちが「あー」とか叫んだ。
 けれども風船はゆっくりと確実なペースで空高くへと上がっていき、そして小さくなっていった。
 ちょうど夕暮れ前の空気が透き通るように感じられる時間で、赤い風船はやがて高いところにある乳白色の雲の中に、ゆっくりと溶けていくように消えて見えなくなってしまった。

 僕はしばらくしょんぼりしていたのだけれど、子供ながらの妙な潔さでまた元の遊びに戻った(子供の特権はたくさんあるような気がするけれど、しょんぼりすることができるのもそのひとつだ)。

 それから、外灯が明るくなり、今度はたくさんの蛾がそのわずかな明かりをめがけて集まってきていた。バッタにせよ蛾にせよ、田舎は生き物が意味もなく(きっと理由はあるのだろうけれど)過剰に生きていていつも驚いてしまう。風景として見ている山々の中にこれだけたくさんの蛾がいると知ることはなんだか不思議なことだった。その親戚の家に泊まっているときには蚊にだってたくさん刺された。生き物の気配だけは常にそこここにあった。

 夜になると、みんなで花火をした。バケツに水を入れて、ビニール製のきんちゃくに入っているセットの花火をした。
 田舎の夜は闇が深く、たくさんの音が聞こえるのだけれど、その上には透明なヴェールがかけられているように感じられる。だから花火は夜闇に対する精一杯の抵抗という気がする。ほんの短い時間だけ明かりがはじけるように闇を払いのけ、けれども結局は闇に戻ってしまう。夜は毎日訪れるのに、その中に身を置いてさえもいるのに、花火をするときにはあらためて夜の闇の深さを認識させられる。いつもそこにあるのに、ちゃんと見ていなかったり聞いていなかったり(あるいは知らないふりをしている)ことがいかに多いのだろうと実感させられる。

 けれどもそのくらいがちょうどいいのだとも思う。いつも様々な物が見えていたら、様々な音が聞こえていたらきっと狂ってしまう。だから鈍感なくらいで、たまの散歩のときに周囲をよく見ているつもりでいるくらいでちょうどいいのだ。きっと。

 その夜もおそらくは遊び疲れてそのまま眠った(最後に遊び疲れて眠ったのっていつだろう?)。

 ちなみに、妹は風船を外に持っていかなかったので、その日の夜にはガスが抜けて小さくなった風船が、部屋の隅に転がっていたのだった。


 ※ ※ ※ ※ ※

 空に飛んでいってしまった僕の風船の方はどうなったのだろう? やっぱり、途中でガスが抜けて志し半ばで力尽きるみたいにしぼんで森の上にでも落ちてしまったのか、それとも雲と雲の間にうまく入り込んで、いつまでもいつまでも浮かび続けているのだろうか?


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 お知らせ

 その小さな町の小学校が廃校になったと、今年妹の結婚式で帰省したときに、親戚のおばさんから聞かされたのです。


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