Sun Set Days
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2003年01月25日(土) 無意識な執着

 僕はテレビをほとんど見ない。
 以前も書いたけれど、部屋に帰ってきたらまず音楽をかける。
 そして、音楽を聴きながら、食事をしたり、持ち帰りの仕事をしたり、本を読んだり、あるいはネットをしたりする。
 音楽はその間も常にかかっていて、それは新しく買ったCDのこともあるし、頻繁に聴き返すいわゆるお気に入りのCDであることもあるし、ものすごくひさしぶりにラックから取り出したCDであることもある。自分で好きな曲を集め編集したMDを聴くこともある。いずれにせよ音楽は部屋の中で、街から消えることのないかすかなざわめきにように常にそこにあり、よっぽど集中して何かをやるとき以外は、消されることはない。

 音楽の効用はよいものであれときにわるいものであれ様々だと思うけれど、個人的には当たり前のようにそこにあるものとなってしまっているので、とりたててこれという効能のようなものを挙げることができないような気がする。もちろん、気持ちを揺り動かされることはあるし、激しかったり美しかったりするメロディーに昂ぶったりしんとした気持ちにさせられることはあるけれど、それよりはやっぱり常にそこにあるものという感覚の方が強い。中高生くらいの頃から少しずつ音楽を聴くようになっていって、それから何年かが過ぎて、音楽を聴くということにすっかり慣れてしまっているのだ。スイッチを押すと部屋の明かりがつくことに疑問を抱かないように、音楽がそこにあることにもう疑問は抱いていないような感覚とでも言うのだろうか?

 もちろん、音楽がなくても日々は続くし、たいていの思い入れのようなものはそれがなくても実はなんでもなかったりすることも少なくない。執着だとか拘泥だとか、そういうものは意外と意識的に自分を向けさせているだけに過ぎないこともあるのだ。
 けれども、それでももし音楽を聴かなくなるのなら、やっぱり少しずつ何かが足りないような、キャンバスの絵の一部が真っ白のままであるような、奇妙な欠落感を得るようになるような気もする。音楽が好きだということ(あるいは他の何かが好きだということ。たとえばある作家とか、ある種類の映画とか)は随分と意識的な思い込みのようなもので、そういうものがなくても実はなんでもない。そう思うのに、それでも実際にそれがなくなってしまったら、そこから離れてしまったら思いがけない寂しさを感じることもあるような気がする。

 そういうのって、なんだか不思議なものだ。
 けれども、そういう意識的な執着を超えた、無意識的な拘泥のようなもの、そういうものが(自分でも気がつかないうちに)生まれてくるからこそ、やるせなくもおもしろい部分、物悲しい部分が生まれてくるのだと思う。すべてを意識的に割り切ることができないことが、その人の声にならない声のような部分、表面には出てこない部分を構成していて、それが個性のようなものに繋がってくる部分もあるのかもしれない。

 それがなんであれ、無意識的に執着してしまうものが、たくさんあることは結構幸せなことのような気がする(どうなのだろう?)。


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