Sun Set Days
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| 2002年09月17日(火) |
街道に建てられた石碑のごとく |
今日は北海道から隣の駅の近くに引っ越してきた先輩から連絡があり、一緒にご飯を食べてきた。 20時30分にさらにひとつ隣の駅の改札口を出たところで待ち合わせ、肉を食べたいという先輩の希望を叶えるために「牛角」に行く。個人的には忙しくていっぱいいっぱいの牛角は致命的に(焼肉屋としての許容範囲を超えているくらいに)ご飯が出てくるのが遅いのでちょっとどうだろうと思っていたのだけれど、先輩の肉を食べたいという欲求は放っておくと森中の木を切り倒してしまう樵なみに強いようだったので、そのまま牛角に入ることにする。 平日だったせいか、場所のせいなのか、その牛角はそれほど混んではいなくて、ご飯が来るのも早かった。ということでそれなりに満足。僕は焼肉には絶対に白いご飯がないとだめな人なので、ご飯が遅いというのは結構重要なポイントだったりするのだ(そういうところはお子様でときに哀しくなるのだけれど)。 そう、思い返してみれば子供の頃遊びに行っていた親戚の家のおばさんには、「○○ちゃんは、白いご飯が大好きなんだもんね」といつも言われていた。それくらい白いご飯が好き。お箸の国の人ですから。
閑話休題。
ただ、肉を焼いているよりも喋っている時間の方が多かった。僕は男なのに! なんでそんなに喋るの! というくらい(場合によっては)喋るので、その先輩とはかなり仲が良いし話が弾んだのだ。もちろん、確かに控えめに言っても僕はよく喋る方だとは思うけれど、それは相手によるし、状況による。時と場合をわきまえることは大人になる第一歩だと昔から思っていたし、ただ喋ればいいような場合じゃないときには、その場に適した内容と喋り方で喋ればいいのだということを学ぶのも大人ならではだ。もちろん、そういうのが大人であるのなら、大人であることはなかなかにむずかしく果てのないことだなとも思うのだけれど。
いずれにしても、たくさんのことを話していた。お互いに。その先輩は7歳くらい年下の恋人が今度一緒に暮らすためにやってくるのだとも話していた。僕もその子を知っているので、今度一緒に遊びに行こうという話になる。それは邪魔者じゃないのかなとか思うが、とりあえずOKする。それにしても、恋人のために知り合いがほとんどいない土地にやってくるのってすごい。
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ネットにはいろいろな人の文章が溢れていて、いろいろな考えや、状況や、出来事が書かれている。それこそ、1日にとんでもない数の人が見るサイトもあれば、森の奥にある小さな集落のように、郵便屋さんが全員と顔見知りというくらいほんのわずかな人だけが見るサイトもある。たとえば「Text Sun Set」も(基本的には)そういうささやかなサイトのひとつであるわけだし。 ただ、一読者としていろいろな文章を読ませてもらっている中で、この人の文章はすごく好きだなと思えることは結構ある。それは笑える内容の文章(いわゆるネタ系のもの)から真面目なもの、あるいはちょっとおかしみを感じさせてくれるものまで様々だけれど、文章だけで(あるいは文章だけであるから)近い感覚であったり、共感のような感情を抱いたりすることができる。あるいははたと気がつかされることがあったり、感心させられたり、ときには襟を正すような気持ちにさせられたりする。 そういう文章に出会うたびに思うのは、その人の人生と絡むことはきっとおそらくないだろうけれど(ネットの世界のことであるし)、一瞬でもその人の状況なり出来事なりを(文章で読んで)知って、いろいろと思うところがある人がきっと(自分を含めて他にも)いるのだろうなということだ。たとえばそれはそういうのはとてもわかる、あるあると膝を叩いて画面に向かって笑ってしまうことであったり、傲慢なことなのかもしれないけれど頑張って欲しいなと応援したいような気持ちになるようなことであったり、自分はこの文章に書かれているようなことにちゃんと向かい合っているのだろうかと考えさせられたりすることだったりする。 もちろん、ネットだからある種の痕跡(メールだとかBbsだとか)を残さなければ自分がそのページを閲覧したということは(書き手には)わからない。ただ、そういう人のなかにそこに書かれている文章を読んだことに小さいかもしれないけれど何らかの意味であるとか共感であるとか、そういうものを持った人がいるということは十二分にありえることだと思うのだ。世の中、一人の人が思ったことは、たぶん他の誰かが思っているわけだし。じゃないと物語は決して広まらないし、世界は味気なく色を失ってしまうし。
そういう意味で言えば、ネット上に自分の文章を記すことは、たとえば田舎の街道を歩いているときの道端にある石碑のようなものなのかもしれないと思う。長年の風雪に耐えてきた石碑は表面は柔らかく磨耗したりして、時の流れを強く感じさせているものだけれど、そこに書かれている内容にはある種の真実が語られている。それを名もなき旅人が旅の途中で目にして、かつてこの場所で起こった出来事や、石碑を彫った人の身にふりかかった出来事を知る。そして、思いを馳せる。そこに小さな(場合によっては決して小さくない)意味を見出す。そういうものなのかもしれないと思う。 ネットの世界というのは幾千の、幾万の、あるいは幾億の街道が脈絡もなくありとあらゆる方向に伸びているようなものなのだろうし、そのそれぞれの街道の中に日々更新されていく文章がたくさんの石碑のように、あるいは一里塚に書かれた文字のように、建てられ続けているのだ。それを、ネットサーフィンなり、「ブックマーク」なり、「お気に入り」なりで通り過ぎていく。石碑に書かれている文字を見て何かを思っても、それは基本的には石碑を建てた人には届くことはない。けれども、そこに石碑を残していることには残し手の何らかの意図(後世に伝えたいだとか、誰かに伝えたいだとか)があるのかもしれないし、そういう意味で言えば石碑を建てた後、旅人が一人でも立ち止まってくれることに意味はあるのだと思う。 もちろん、結局のところ意味だとか意義だとかそういうものは大きな役割をもってなくて、石碑を建てた人にとっては石碑を建てることこそに意味があるのだということなのかもしれないけれど。 むしろ、そういうほうが本当なのかもしれない。 石碑を建てた人には石碑を建てることこそに意味があって(形にすることはときに本人が思っていたことをクリアにするし、形にした刹那思っていることを正しくは形にできていないことに気がつくのだけれど、それでも形になってしまったものは強烈な存在感で持って主張しはじめるので、それがほんとうのことになってしまうような感覚)、ただその結果として残された石碑を見て何かを思う旅人がいるということは、どうでもいいことなのかもしれない。――けれどもそこにもやっぱり意味はある。小さな意味が、あるいは小さくない意味が。
いずれにしても、意味があるとかないなんてことを言うのは、傲慢なことだなとは思う。でも、結局のところこういう文章だって街道に建つある種の石碑にしか過ぎないのだろうし、街道に建つ石碑に込める意味はこういう場合個人的なものでしかない。だからまあ、いいかなと思う。いつか誰かが石碑を見て、何かを思ってくれるかもしれないし、ただ通り過ぎていくだけなのかもしれない。 石碑を建てよう。
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日常生活では口にはしないけれど、いつも思っていることがあって、それは「世界の周波数」のこと。 そんなことを言ったら不思議がられてしまうので普段はもちろん言わない(基本的には現実的なのだ)。 けれどもそれでもしばしばそのことを考える。 それは世界はいつも微細なノイズに溢れているような周波数の中にあって、ノイズはときに耳をつんざくほど大きくなったり、曇天の下の野原を揺らす微風のようだったりするんじゃないかということ。 けれども、一生のうちに何度か、そのノイズがクリアになる瞬間があると思うのだ。たとえばそれは小さな携帯ラジオで、世界中の砂浜にある色のついた石を集めたような素敵な曲を流している海外のラジオ局の電波をノイズなしで捕まえてしまうみたいなことだ。海を隔てた電波をクリアに受信する。そしてその瞬間にとても美しい曲が流れ始める。一瞬のうちに、心を掴まれてしまう。見えない手で掴まれ、見えない声で絡め取られてしまう。身も心も、魂ごと。 その瞬間はじっとただ待っているよりは、自分から(アンテナを伸ばした携帯ラジオを持って)いろいろな場所を選んで探していく方が来やすいような気がするけれど、そうでないこともありうる。ただ、そのノイズがかき消えてしまう瞬間は、きっととても素敵なもので、本当に素晴らしいもので、一度でもそれを体感してしまったらもう一度それを経験したいと思ってしまう。そのノイズがクリアになった瞬間の記憶があるから、それから大変なことがあっても頑張れたりもするのだ。 それを知っているからこそ、普段はノイズがあることの意味もたぶん理解できるのだろうし。 だから、日々いつもそのことを考えているわけではないけれど、ときどき、かつての周波数がクリアになった瞬間のことをうっとりと(あるいは健やかに)思い出したり、周波数を合わせるのだと思うことは大切だと思う。 あのときの曲をまた聴きたいとか、まだ知らない素敵な曲があるはずだとか思うことは。
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お知らせ
モニカの3rdアルバムは、ずば抜けて名曲ばっかり! という感じではないのですが、穏やかで好きな感じの曲が数曲入っていて、その曲ばっかり繰り返し聴いています。7、10、13曲目なのですけど。
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