Sun Set Days
DiaryINDEX|past|will
伊豆高原の中にある何でもない山道を、40分くらい1人で散歩していた。 土日をかけて11人で、バーベキューをやったりいろいろと楽しんだのだけれど、ちょっとした自由時間にせっかくなので散歩に出てみることにしたのだ。 僕らが宿泊していたのは1グループが家一軒をまるごと借りるタイプのところで、周囲には同じような建物や、プチホテルなんかが並んでいた。山の中に囲まれた、鳥や虫の鳴き声が響いているような、そんなところ。風に流れる霧のせいか空気は湿っていて、歩いていると、傘のいらない小雨のときみたいに、うっすらと腕が湿ったりした。
車2台すれ違うのもちょっと難しいような、そういう路地(一応舗装はされている)がまるで迷路のように続いていて、それはなんだか神様が山の中に絵を描こうと空から大きな手で何本もの線を描いて、そのまま途中でそのことを忘れてしまったみたいだった。
そこには、意味のない行き止まりがあったり、意図のわからない小さな空き地があったりした。たとえば空き地の方は、木々の合間から、下の方に小さな(テニスコート半面分くらいの)空き地ができているのが見えている。けれども、その空き地に行くための階段や入り口はなく、何のための空き地なのかの説明もなく、ただ雑草が生えたままになっているだけなのだ。 木々の間から覗きながら、なんだろうってちょっとだけ考えてしまった。
冬のために使うものなのか、丸太が何層にも積み重ねられているところがあった。 古びた謎の機械(材木を切断するもの?)がビニールシートをかけられたまま道路わきに放置されていた。 飼い主が戻ってくるのを待っている従順さを競っている犬たちのように静かな、使われていない別荘がたくさんあった。
そして、一番印象に残ったのは、ごみ置き場があって、そこに4台ほどのテレビが捨てられていたことだ。 それらのテレビにはそれぞれ張り紙が貼られていて、「この場所に捨てることの許可を得ていないので、捨てた人は持ち帰るように」というような内容の文章が書かれていた。 だからたぶん、それらのテレビはもう結構な長い時間放置されているはずだった。放置されている場所は、薄暗い森のなかの、細い路地沿いにある小さなゴミ置き場。 つまり、普通に考えると、捨てた人たちはもう二度と「持ち帰る」ために戻ってくることはないということになる。 だからまだ結構な時間、テレビは同じ場所にあり続けることになる。
もちろん、僕だって(テレビは捨てないにしても)ゴミは捨てるし、自然をすべて残しておくことができないことも現実問題としてわかる。 けれども、やっぱりそういう光景を見てしまうと「うーん」と思うし、やりきれなくなる。 だからと言ってそこからテレビを持ち帰り廃品回収業者に持っていくなんていうこともできるわけではなくて、そういうことができないのならいちいち何かを言ったりすることはできないのだとも思う。 それでもできることは少しくらいはあって、自分がそういうことをしないことがその最初にくると思う。 それは、価値観によっては偽善と言われてしまうようなことかもしれないけれど、それでもいつかテレビを捨てるときには、そういう場所に放置することではなく、きちんとした手続きを踏んで捨てようと実感した。 そういうのって、もちろんとるに足らぬ小さなことではあるけれど、けれどもあの光景は奇妙な静寂さに溢れていて、あらためてそう思うには充分すぎるほど迫ってくるものがあったのだ。
その周辺は、基本的には美しい自然の中であり、静寂に包まれた雰囲気と木漏れ日の中、その遺棄されたテレビすら風景の一部分として溶け込んでいるということはできた。
けれども、それはきっと何か違う。
―――――――――
昔、道徳の教科書か何かに載っていたもので、細部は少し異なっているかもしれないけれど、忘れられないエピソードがある。 それは、村長さんに何かのお祝いのために村中みんなでブドウ酒を贈ろうという話になって、大きな樽に村人1人が1杯ずつワインを入れていくということになった。 そして、村人たちからワインを贈られた村長さんが嬉しくてワインを飲もうとしたら、何とその樽の中には水しか入っていなかったという話。 つまり、自分1人くらいワインのかわりに水を入れてもわからないだろうと、全員がそう思ってそうしてしまっていたという話。 個人的に、幼い頃のこの話の衝撃たるや大きなもので、道徳の教材だけにある程度オーバーに作っているところはあるにしても、「全員!」ということには本当に驚かされた。大きな樽1杯になるくらいの人たちが、1人もワインを入れなかったのだということ。 そのエピソードはいまでもときどき思い出してしまうし、いろいろ考えさせられてしまう。
もちろん、自分だってずるいし、そういうところがあるのだけれど、それでもどうしても(だからこそ?)いつもこのエピソードに立ち返ってしまう。そして、自分だけがワインを入れるのと、できるだけたくさんの人にワインを(それとないやり方で)入れてもらうことのどちらがいいのだろうとか、そもそも何もしなくても全員がワインを入れるようになるための素地としては何が必要なのだろうとかいうことを考える。 もちろん答えはでない。
ただ、その捨てられたテレビを見たときに、ひさしぶりにその話を思い出した。 自分たちだけが正式な処理を経ないでテレビを捨ててしまおうと誰もが思ったら、世界中の森や山はテレビだらけになる。 そういう機械たちがいつか自我を持ったりしたら……とか考えてみたら、へたな怪談よりよっぽど怖い。
―――――――――
お知らせ
某観光地の食堂に入ったのですが、そこではカツ丼が1200円で、観光地価格にみな憤慨していました(もちろん僕も)。
|