ビクトル・ハラVictor Jara(1938-1973)は,シンガーソングライターで,チリではビオレータ・パラVioleta Parra(1917-1967)とならび「新しい歌」運動の旗手の一人だった。
ハラは,チリ南部のチジャン地方ニュブレ県に生まれ,民謡とギターが得意だった母親によって歌に目覚めた。やがて,首都サンティアゴへ出た彼は,チリ大学で演劇を専攻する傍ら,「クンクメン」と名乗る民俗音楽研究グループに加わり,チリの南部や中部に,宗教的あるいは世俗的な民謡を訪ね歩いた。
大学を卒業した後,ハラはしばらく劇団を率いて活動。1965年には年間最優秀の演出家として表彰されている。しかし,彼は次第に音楽家への道へ傾斜していった。そして,このころからハラは単に伝統的な民謡をうたうだけでなく,民衆の哀歓を語り,社会の不正に対して抗議の姿勢をとる歌手としての姿勢を鮮明にしていく。このような歌い手としての姿勢はハラだけのものではなく,当時(そして現在も)貧富の差が非常に大きかったラテンアメリカ全体に見られたもので,「新しい歌(ヌエバ・カンシオン)」運動と呼ばれる。
1966〜7年頃から,ハラは本格的にソロ歌手としてうたい始めた。1969年には,チリのカトリック大学が主催した「新しい歌の祭典」で,彼のうたう「耕す者への祈り」が大賞を獲得した。続いて1971年に今度は年間最優秀の作曲家としてレコード大賞に輝いた。
しかし,1970年に社会党のアジェンデを大統領とする人民連合政権が誕生した頃から,ハラたちは右翼からの攻撃を受けるようになってきた。
人民連合は,社会党を中心に右はキリスト教民主党左派から左は共産党にいたるまで,幅広く進歩勢力をまとめ,社会主義の実現をその政綱に掲げていた。そのため,アジェンデが大統領に選ばれると,選挙で誕生した社会主義をめざす政権として,世界中の注目を集めた。また,「新しい歌」運動は,人民連合と互いに協力関係にあり,政権誕生のために大きく寄与した
人民連合政権は,チリの主要産業である銅鉱山を米資本から取り戻して国有化したり,その一方でミルクの無料配給で乳児死亡率を低くするなど,貧しい一般民衆のための政策を次々と実施した。そのため,それまで甘い汁を吸ってきた大資本,そして彼等と協力関係にあったアメリカは,政権転覆をたくらみ,陸軍のピノチェット将軍を援助してクーデター計画を進め,また,ハラたちの「新しい歌」運動に対する執拗な妨害を繰り返したのだ。
そして,1973年9月11日。ついにクーデターが起こった。アジェンデ大統領は殺害され,ピノチェットが政権についた。ハラは軍部によって拘束され,サンティアゴ市内のボクシング・スタディアムへ収容された。そこで過ごした二日間,彼は歌をうたって仲間たちを励まし続けた。そのため,二度とギターを弾けぬよう両手首を折られ,顔を切りさいなまれ,最後に弾丸を撃ち込まれて絶命した。35歳だった。
http://www2.justnet.ne.jp/~mzn/jarahis.htm
ビクトルハラの曲はここで聴けます。
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