2003年05月20日(火) |
「癒し」という言葉について、再考。 |
前々から、「癒し」という言葉は、「自分探し」や「勝ち組・負け組」と並ぶほど嫌いだった。 アリアも日記で取り上げるほど嫌いであるらしい。 流石はつきあいの長い友だけある。 趣味も好みも生活環境も、離れてしまったが、そういう感覚を分かち合える友は、得難いものである。と、たまには素直に表明しておく。
何故嫌いなのか。 流行の言葉だからか。いや、もはや流行とは言えない。 この便利な言葉は、鬱陶しいことに、きっちり定着してしまった感がある。
足裏マッサージも、感動する本も、絵画鑑賞も、身体にいいものを食べることも、南の海に旅行することも、動物と戯れることも、植物を育てることも、子供と接することも、全部『癒し』のひとことで片付けられるんだから、そりゃー使い勝手がいいだろう。
だけど、本来、『癒し』とは、そんなにお気楽な軽い言葉だったのか? そうじゃないだろ。 『癒し』という言葉には、だれかを『癒したい』でなく、『癒されたい』という受身の願望が見え隠れするから嫌いなのかもしれない。 「疲れてるの。辛いの。苦しいの。病んでるの」という時代の弱音の集大成なのか。 そう思うと、ますます嫌いになってきた。
『癒す』という能動的な使い方をする人が余りいないのも妙だ。 『癒し』を売り物にする側も、『癒しの空間を御提供いたします』だの、『癒しグッズを取り扱っております』『癒しの時間を過ごせます』だのという言い方をする。 絶対、どっかで、『癒し』というキーワードで儲けてる人たちも、自分達が使ってるその言葉の中身が空っぽだと自覚してるに違いない。 『癒す』というのは、そう簡単に出来ることでは無いと、皆、無意識に、知っているのだろう。 それはある意味当然のことだ。 病を『癒す』のも、心を『癒す』のも、そんなに簡単なものではなかったはずである。 医師たちは、太古の昔から、長い時間をかけて、人を『癒す』ために、様々な努力、研究を重ねて、今の医療を確立したのだろうし、古今東西の宗教家たちは、人の心を『癒す』ために、過酷な修行をするのだろう。
アリアは、『癒される』を『和む』と言い換えていた。 それも言い得て妙。ナイスな訳だ。
んでは、わたしも違う言葉で言い換えようか。 『愛する』『愛される』としておこう。 自分を愛する、動植物を愛する、芸術を愛する、人に愛される。 全部、心地よく、心身によさげではないか。
……いかん。 アリアじゃあるまいし、『愛』なんて言葉を連呼するのは性に合わん。 アリアならともかく、わたしが、そんな言葉を日常の会話で使ったら、一気に周囲が引いてしまう。 しんたさんには「疲れてませんか?」と心配され、作戦さんあたりには「おっとこまえのらるごさんはもういないのですね」と言われ、えむせぶんさんは、「わはははははははは」であろう。
では、もっとシンプルに、かつ、汎用性の高い言葉で。
『楽しむ』
うん。 わたしはこれで行こう。
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