潔 ノ 森

2006年04月20日(木)

覚書 (自分自身への審問 辺見 庸 著より)

狂想モノローグ――「かさねてきた徒労のかずをかぞえるな」

体調を悪くするほど腹を立てていたのは、しかし、別のことだったような気がします。それは、一言でいえば、この国独特のどこか安手のシニシズムのような空気でした。あれはいったい何なのでしょう。含み笑い、冷笑、譏笑、嗤笑、憫笑……。くっくっくっ。ふっふっふっ……。この国では、人として当然憤るべきことに真っ向から本気で怒ると、恐らく誰が教えたわけでもなく戦前からつづいている独特のビヘイビアなのでしょうね、必ずどこからかそんな低い声調の笑いが聞こえてきます。何もしない自分を高踏的に見せたいのでしょうか、それとも、何も怒らない絶対多数の群れにいるという安心感からでしょうか、何の意味もない口からの放屁のような笑いなのでしょうか。ぼくはあの笑いが生理的に嫌いで、ときには淡い殺意さえ抱いたものです。
 結局、ああした笑い、それによって醸される空気(そこはかとない蹉跌感。かつてぼくが書いた「鵺のようなファシズム」とも関係があるかもしれません)が厭さにデモに行ったりしていたのかもしれません。いい歳をして本当は何もそんなにいきりたつことはなかったともいえます。第一、政治状況についてのべつ口角泡を飛ばし、紋切り型の正義ばかり主張するような輩をぼくは最も苦手としていました。わかりやすい正義と悪の模式のようなものを示して、他者を教導したり諭したり鼓舞したりするのを、仮にそれが大枠でまちがっていないにせよ、どうもどこかいかがわしいことのように感じてしまいますし。反動の政治でも革命の政治でも、政治であるかぎり信用できないのです。ぼくはかつて「人間をひと株の樹木に擬するとき、地下茎のない、幹や枝だけの立像としてしか語らないのが政治や社会制度である。人間身体の根茎が、まつりごとにいっかなまつろわぬものであることを、政治は嫌い、故意に存在を無視する。土台、相容れないのだ。」(「地下茎の反逆」、『眼の探索』所収、朝日新聞社刊、角川文庫)と書いたことがあります。いまでもそう思います。










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