カラジ風味

2003年10月03日(金) マルクナル

大人になった。
人間ができてきた。
評して「マルクナッタ」と言う
若さが失せ元気が無くなった。そう思われる所もあるが
総合力 円熟味が備わったと解することにする。

今日のコーチは少しキツイ!
「心の濁りを拭き掃え」終始鏡を磨くカラジです。

選択の自由と個性についてなのですが
本物の自分らしさ・個性・自由とは宿命を受け入れその輪郭を
明確に認識してそれを己の中に取り込むことからのみ生まれる。

多くの米国人は個性とは自己主張の事だと考えている
自我の確立こそが個性の完成であり、そこに人それぞれの
色合いが生まれる。
佛教ではこれを「小我」と呼ぶ
小我は人が人として生きる為に克服せねばならない最も
忌まわしいもの、とされている。
自分本位の考え方を前面に押し出して人と競い合わずに
いられない「心の濁り」を小我と言うのである。
それは自分自身も疲れ、それを見ている周りの誰おも疲れさせる
極めていやらしい存在である。
自己主張の無限循環から逃れて、深く静かに自分を鍛え
その結果ごく自然に自分の持って生まれたものが表面に
現われてきて他の誰とも違う充実した人生を歩めるのである。
これが東洋の知恵であり我々が先祖より受け継いできた
米国人には決して真似のできない大いなる特徴である。

一般的に言われている所の自由とは
所詮何かからの逃避の自由に過ぎず
その逃げ方の様々を個性と名付けただけの事である。
生き甲斐とは
運命的な不可避な過程に対する生命の燃焼であり
自己選択の結果の自由と言う名の逃避からは決して
生まれてこない情緒の発動なのである。
人は宿命に追いつめられ、それに真正面から対峙する時に
於いてのみ本物の自由を得るのである。

何度も何度も聞き返したのですが
コーチが遠く感じた一日でした。


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