おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
Facebookでプロフィール写真をトリコロールにしている人たちと、それに批判的というか、疑問を呈する人がいる。極端な場合、トリコロールにしている人を友だちから外すと宣言する人もいる。こうでなくてはならないという概念を持つと、そうでないものは悪、あるいは間違っている、劣っているということになり、争いや断絶の原因となる。
日本人の曖昧さ――そんなようなそうでないようなというスタンスは外国から見るとわかりにくいが、旗色を鮮明にしないという意味で優れている。大事なのは争わないことであって、態度が明快かどうかではない。戦争したくないんですよね? したくないといって人を指さし罵って(争って)いるよくわからない人もいるが、それはともかく。明快にしないといけないときもあるけど、その先に争いがひかえているのがわかれば曖昧もアリだと思う。 安倍総理はハッキリしてしまいましたけどね。それもしかし、背景があってのことで、曖昧にはしておけなかったんだろう。ノリでそう言ってしまったのではないと思うよ。 フランス側から見たらトリコロールにしたくもなろうし、シリアやIS側から見たらそれに批判的にもなるだろう。どんなに相手が狂っているように見えても、絶対的な正義などない以上、どちら側から見ているのかということでしかない。しかし、どちらに立っても、立場が強固になればなるほど争いの種を育てることになる。 ワタクシ的には、「死は死だ」というしかない。人間は毎日山ほど死んでいる。どのように死のうが死は死だ。あえて聞かれれば弔意を示すが、そうでなければスルー。むろん、トリコロールにしようがしまいがその人の自由であって、私がそれに口を挟む所以はない。 テロ事件の犠牲者は、犯人に殺害された人だけではない。自爆した人、治安部隊に殺害された犯人、背景となっている空爆による犠牲者も含まれる。そんな風にならざるを得なかった、左右の関係者すべてに弔意を示すのなら、国旗は不適当だと思うけど。フランス側に立つことになり、じゃあ空爆による犠牲者はどうでもいいのかと思う人もいる。 するのもされるのも、双方に原因がある。偶然や運というものがあると思っている人には通用しない話だろうが、縁もゆかりもなく、突然そうなることは有り得ない。オレが悪いのか、というのではなく、ただの原因。 意識のベクトルを外に向けている以上、何ら解決しないし、収束することもない。力ずくで抑え込まれて収束したように見えることはあるけどね。しかし、それは不快きわまりなく、特にされた方はくすぶったままであり、そのくすぶりは、また何年か何十年後かに表面化して(同じ相手、あるいは相手を変えて)同じ事を繰り返す。 個人から国家レベルにいたるまで、自分(たち)の原因に目を向けない限り、一切の進歩はない。反省せよとはいっていない。良い悪いではない。相手がどうのこうのでもない。それを招いた自分の原因とは何かを理解すべきということだ。 追記: Aさんが亡くなったのとBさんが亡くなったのは別問題、という人もいたけど、この場合は関連性がある。テロで亡くなったのはフランスの方々。空爆はフランス(だけじゃないけど)がしていて、その空爆で亡くなっている人がいる。あなたもしているのに、なぜ一方だけ? という違和感があるのだと思う。
おおみち礼治
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