おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
誰かを恨んでいるとすれば、それは自分の中に他人を存在させてしまっているからだ。簡単に言うなら、他人のせいにしているからだ。恨みという感情をどう扱うか、ということだが、その感情そのものを相手にしている以上どうしようもない。せいぜい、軽く出来る程度で完全に消し去ることは永遠に出来ない。
恨みの反対――恩義に切り替えることは難しいだろうし、相手に恨まれているものを解消しようとするのも難しい。謝ったら自分が悪いと認めるようなものだし、そうなったら相手はますます謝罪を要求するだろう。それで納得してくれるなら謝ればいいのだが、そうではない相手もいる。取り返しのつかない場合は特にそうだ。 恨みを恩義に切り替えられたとしても(理解なしには無理。思い込むことは出来るかもしれないが)、相手がそれに応えなかった場合、簡単により深い恨みに転化する。 では、どうすればいいのかということだが、「すべては自分である」という理解することだ。自分が悪いのではない。自分が原因であると真に理解するだけでよい。それが人間には難しいんだけどね。しかし、そうしなければ恨み、恨まれる関係はずっと続く。理解できれば、そういうことかと腑に落ちて感情は消え去る。 恨まれている場合だが、相手は関係ない。なんとか相手に自分を恨むことをやめて欲しいと思うのは、すでに自分の中に相手を住まわせている。自分が理解さえすれば、相手もなんだか知らないけれどもうどうでもいいや、と思うようになるものである。 また、常に都合の悪いことを他人のせいにしている人は、こちらが理解することによって、自分ではない誰かに恨みの対象が変わっていく。「自分である」と理解しない限り、そうやって次から次へと恨む対象を変えて一生過ごしていくのである。 他人ではない。 もし、他人だとしたら、いちいち出会う人出会う人に対処しなくてはならないが、自分であるなら自分を相手にするだけでいい。 他人や感情そのものを相手にしても泥沼にはまるだけなので、なぜそうなったのか自分の原因に正面から向き合うことだ。冷静に、素直に、事実と向き合えば自分が見えてくる。
おおみち礼治
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