おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
考えたことがなかったので、考えてみた。
払えるのに払わない人、払えない人といるわけだけれども、後者は仕方がない。いや、いまは仕方がないが、無金利で貸し付けて、返してもらいたい気はする。ない、で済んでしまったら、その後も、何もしようとしないだろう。どうか頑張ってください。 払えるのに払わない人については、 ■2ちゃんねる賠償金「死刑なら払う」…管理人・西村氏 http://www.yomiuri.co.jp/net/news/20070320nt08.htm 関係ないようだが、上の記事を思い出した。ひろゆき氏は、過去の訴訟で確定した賠償金について「支払わなければ死刑になるのなら支払うが、支払わなくてもどうということはないので支払わない」といっており、これに似ている。 社会に生きる人として、マナーを守り、社会常識に沿って、責任を果たして生きている人と、マナーも何もあったものではない、罰則がなければ何をしてもいい、と勝手放埒に振るまう人間が同列に扱われたら、前者は納得いかない。 それでいいとなってしまったら、社会はメチャクチャになってしまうからだ。行政は法律を作って後者を制するしかないが、勝手な人が増えれば増えるほど、法律はどんどん増えることになる。勝手放埒というと、自由でいいんじゃないか、と思う人もいるかもしれないが、法律だらけでがんじがらめの社会に向かっているとしたら、それは勝手放埒な人間がそうしているのである。 マナーを守るのが当たり前で、生活がちゃんとできて、社会がうまくまわっていれば納得いく。そうであれば、わざわざ法律を作ることもない。 勝手放埒は、自由に見えて、かえって不自由を招く原因を自分が作っていることになる。不自由な現象が現れたとき、それに文句を言っても仕方がない。招いた原因は自分にあるからだ。 本当に自由に生きたければ、守ることだということが見えてくる。マナーであり、社会のルールであったり、もっというなら、人間の作り出した法律ではない、法則というものがある。それから外れた途端、結果的に不自由し、苦労しなくてはならないのは、他ならぬ自分だというわけだ。 ただルールだから、マナーだから、というのではなく、そこまで分かった上で守っていくのがよろしいんじゃないかと思ったわけであります。
おおみち礼治
|MAIL
|