おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
基本的に、細木さんのおっしゃることに、まっこうから反対意見は出てこない。まったく思いつかないようなことをいうので、なるほどなぁ、と思うこともしばしばある。
だが、「自分が中心」ということがないので、ちょっと言い足りてないのではないか、と感じられることはある。 すべて見たわけではないが、感想など覚えているところを少し。 ヘソ出しルックの女子高生に、商売でもないのに女の子がおへそを出して街を歩くものではない、品性を下げる、身体を大切にしなさい、というお話しだった。 ヘソ出し女子高生が、「それは分かっているが、これをいいと言ってくれる人がいる」と言っていた。 心の底から、あれが、スバラシイと賛美されているのか、それとも(どうでも)いいんじゃない、と言われているのかで、ぜんぜん違う。前者であれば、ああそう、としかいいようがないが、後者であって、それを女子高生が見抜けていない可能性もある。 誰かが「いいといってくれるから」そうするというのでは、自分がない。自分が空っぽのまま、誰かの褒め言葉をよりどころにしている。 一生、そうやって生きていくのだろうか。一生、誰かが言ってくれるから、と自分を放って誰かの言葉を中心に生きていくなんて無理がある。 自分を大切に、といっても分からないかも知れないが、ぜひ、自分をないがしろにすることなく、生きてもらいたいですね。 派手な化粧と奇抜な髪型、ファッションも、自分自身を隠す道具のように思われた。誰だか分からないくらいに顔を塗りたくり、別の誰かになって仮面のおつき合いをしていても、満足を得られないどころか、苦しくなる一方だと思うのですけどね。 仮面を付けたまま結婚して、そのまま50年も60年もやっていけるとは思えません。素のままの自分自身を出していないと、いつか破綻します。 であれば、最初から素のままであることです。 ダンス教師。 あのなぁ、という感じ(笑)。 授業中に生徒の前でヒップホップか何か知らないが、ダンスをして見せたって、生徒は「奇妙な先公だ」というだけで、授業自体に興味が向くわけではまったくない。 怒るときは気が狂ったように怒る、といっていた先生。 怒るのと叱るのでは意味が違う。「気が狂ったように」感情的に怒られたら、この先生、ちょっと危ないんじゃないか、尋常ではないんじゃないか、と不安になる。 生徒は、これ以上、この先生を刺激したらマズイ、と感じるから、謝っておこう、という気になるように感じられた。 先生と生徒の間に差はある、というお話。 大学を出て教師の免許を取った大人と、高校過程にある子どもとでは、当然、上下の差がある。2次元世界なら左右と前後しかないが、3次元なのだから上下というものは確実に存在する。 上の人間が、下の人間に教えるという認識は自然なものだ。 楽しみにしていたビデオをお父さんが間違って消してしまい、それから4年間、口を利いていないという女子高生。 親の他愛のないミスをいつまでも抱え込んで、許せない、などと言っていたら、他人はもとより、自分が犯したちょっとしたミスも許せなくなる。そうやって生きていったらどうなるか? 幸せな人生が待っているだろうか? 一生そんなことで冷戦状態を続けるのだろうか。それで満足なのだろうか……。 そう考えれば、どうすればいいのか、すぐに分かる。 因果応報。 自分がしたことは、必ず自分に返ってくる。Aさんにしたことが、Aさんから返ってくるのではなく、ぜんぜん関係のないBさんに、かつて自分がしたことをされるのだから、面白い。 「あ、これはかつての自分だ」と気が付かないで、Bさんに怒ってしまうものだが、それをしていると、いつまでたっても同じことの繰り返しになる。 ではどうすればいいのかといえば、かつての自分なのだ、と気が付くだけでいいのだろうと思う。なにもしない。それだけでいいのだ。 「自分が中心」なのだから、その親も、友達も、環境も、すべて自分が招いたのだ。だから、自分を知りなさい、と何度も何度もおっしゃったのだと思う。 自堕落な生活をしていて、ええ男おらんかな、と言っていても、寄ってくるのは、自堕落な男でしかない。髪の毛がモシャモシャで、顔中、真っ黒に塗りたくった女の横に、スーツとネクタイの普通の男が並んで歩くことはない。 類は友を呼ぶ。 目の前のその人は、自分である。目の前に鏡があると思ったら間違いない。 そこを勘違いして、人のせいにし出すと、訪れるのは、ますますの不幸であり、泥沼である。わたしはあんなことはしない、と言ってしまう。 それは、間違っている。 そういえば、名前を失念してしまったけれども、俳優さんが占ってもらっていたのを聞いて、これはオレだな、と思ったことがひとつ。 心に余裕がない。(^^; カンペキにしようとしすぎて、余裕というか、隙がない。 一発でキッチリ決めなくてはダメなわけではない。なんか、そういうところ、ほぐしていかないといけないなぁ、と思った。 無気力でろくでもない子どもばかりだ、というお話もあった。それに関連して、一部のエリートが社会を操り、それ以外の大衆がいる、という言葉に、ドキリとするものがありました。 まあしかし、私は、細木さんがおっしゃるような無気力なろくでもない子どもで、そのまま歳だけ重ねてきてしまったものだから、本当にまあ、自分であきれてしまう。 特にやりたいこともなく、エネルギーもないから、なんだかよく分からないまま気が付いたらこんなところに流れていました、という感じだもの(汗)。 エネルギーがない、という点については、諦めている。 いっぱいメシを食って、体を動かしていれば、無尽蔵にエネルギーが沸いてくるものではない。いや、普通に生活していくくらいのエネルギーはあっても、もともとエネルギッシュな人のようにはなれない。その人に与えられたエネルギーの総量というものがある。 エネルギーのある人は、物量作戦で、たくさんのエネルギーを世の中に還元し、たくさんのものを得ていけばいい。私にはそれはできないから、得ようと思ったら、最小の力で最大の効果を生み出す術・技を行うしかない。 それを学ぶには、人より時間もかかろう。だが、まったくなにも得られないわけではない。負けん気だけは強いので、悔しい思いもするのだが、そこは理解して、坦々と行くしかありません。 なんだか、だんだん話しが違ってきましたが、まあ、そのようなことを感じたわけであります。はい。
おおみち礼治
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