おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
<小6同級生殺害>「どこでも起こり得る」 教育現場に不安
ネチケットを守りましょう、マナーだから、などと言ったところで、なぜそうしなくてはいけないのか納得させられなければ意味がない。そうでないと、ああ、大人は、また口先だけ、建前だけなんだな、と見抜かれ、あきれられ、やっぱりこいつらは信用ならないという思いを強固にさせてしまう。 そうしていたらどうなるのか、しなかったらどうなるのか、それで自分が本当に自由か、快適なのかどうか、すっとした気持ちになれるかどうか。徹底的にシミュレーションさせたい。あとは、まあ、これもシミュレーションに含まれるけれど、許すことと謝ること。誰だって聖人じゃあないのだ。 謝ればすむということではないが、ただ、いまの世の中は、自分が悪いことをしたら謝るのが当然――ということが当然ではなくなり、都合の悪いことがあれば裁判に訴えて、勝てば正義という、自己責任も何もない、言いたい放題、やりたい放題なのが当たり前になってしまった。頭がいいのはいいし、力があるのもいいけれども、中身が下衆では話しにならない。そこのところが忘れ去られ――というより、どうしてそこが大切なのか真に理解されないまま、単なる建前に落ち着いてしまい、表面的なことばかりが追求される世の中の必然的な結果がいまある。そういう世の中まま、このまま進んでいって、果たして人間はやっていけるのでしょうか……? ネットもカッターも材料に過ぎません。もし、それが問題だというなら、世の中は凶器に満ちあふれていることになります。エンピツ然り、コンパス然り、筆箱然り。投げつけて当たり所が悪かったら死んでしまう。カッターが自分で勝手に飛んでくるわけではなく、投げつける人間がまずあるのだからね。 また、それを招いた自分がまずある、ということをこの事件に当てはめるのは、子どもだし酷かも知れないが、しかし、人間が作りだした法律だなんだという前に、そうすればそうなるという法則というものがある。善悪ではないよ。タダの原因と結果。 子どもを取り巻く大人にしてみたら、子どもをそのようにしてしまった大人がまずあるのだから、何か改めなくてはいけないのだとしたら、子どもがどうの、教育がどうのというより前に、大人自身の態度でありましょう。 もっというなら、態度を改めるというのではなく、物事の理解を深めることですね。たぶん、それだけでいい。 たとえば、発したものは返ってくる、というただこのことだけを理解するだけで、世界はだいぶ変わると思うんですけどね。 <年金改革関連法>民主党の「秘策」不発 議事与党ペースで いやー、議員さんって大変ねー。(笑) って、笑っちゃいけないのかも知れませんけどね。引き延ばし作戦なんて、わしが与党議員だったら、「カーーー!」とか叫んで頭を抱え、発狂してしまうかも知れない。(笑) 一度完全に解体しなければ、政治は何も変わらないでしょうねぇ。でも、解体といったって、それを拒む勢力――わしに言わせれば業というものがはびこっている以上、できるはずもない。映画のデイ・アフター・トゥモローみたく、国が壊滅するくらいの自然災害でもあって、完全に「それどころではない」状態になり、日本だけでなく世界の人間の意識がひとつにまとまるというようなことになれば、すこしはすっきりするかもしれない。 それはともかく、秘策といっても、いつもの見せかけの大騒ぎのように思えますねぇ。結局どうにもならないにせよ、反対なんだぞ、というアピールをしないと(しなかったらしなかったで、またそれは批判されるから)いけないということも分かりますが。 「波紋広がり心痛む」皇太子さま、発言を文書で説明へ 発言の真意をうかがうとかなんとかではなく、宮内庁の各人が、自分の胸に手を当てればいいだけのことだ。いちいち皇太子さまに言わせなくともいいことです。 「パラサイト」景気に悪影響!?第一生命経済研試算 住宅投資落ち込み 社会人になっても、親にパラサイト(寄生)している人が多い、というお話し。 わしもそうだからねぇ。 ちょっと目にとまったのだった。 ニュースとは何の関係もないのだけれども、いろいろと思い悩むことはあっても、でもやっぱり本当はちょっと違うんだな、と認めても良いかな、と思えるようにはなってきた。 なんのこっちゃだけど、つまりわしは身体障害者だから――いや、内部障害だから見かけは普通の人なので、普通の人のように働いて、結婚して、勝ち組とか負け組とか、そういう概念の中に飛び込んで競争して勝ち抜かなくてはダメだとか、それにしてはいい歳になって、なにもない自分にもどかしさを感じたりとか、いろいろとね。 だが、朝起きても、スッキリしない体調なのが当たり前で、体力もない。でも、普通の人たちの中に入り込み、せめて平均かちょっと下くらいでもいいけど、なんとか成績を出して、朝から晩まで普通に仕事をし、エネルギーをかけて何かを成さなくてならない、自分にも出来るはずだ、しなくてはならないのだ、と力んでいた。 だが、本当に、自分は体調が優れないことが多いし、体力もなく――要するに弱い。社会に出ると、障害について理解してもらうことは困難で、態度の善し悪しに関係なく、弱いお前はダメだ、という目で見られるから避けるようになった。障害を説明するということは、自分で自分のことを、弱いんです、だから出来なくても勘弁してね、と宣言するような気がしていやなのだ。それが仕方ないことは誰よりも承知している。 何も説明せず、無理をして、頑張って、つっぱってきたが疲れた。弱さをずるさととらえてもだえていたこともある。しかし、その自分の弱さを認めても良いかな、と思えるようになってきたのですよ。認めたからといって、そこに安住するという意味ではないんだけどね。
おおみち礼治
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