おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
●不論理――同情について
透析導入前後の頃――大抵の患者が、同情されたくないといっていた。一時期、わたしもそうだった。なにひとつ分かりもしないヤツに、かわいそう、などと言われるのは腹立たしかった。キサマに何が分かるのだ、と詰め寄りたくもなった。 だが、物事は常に自分を中心に展開しているという理解からすると、同情されるような自分がまずあるのだな。 知っている人の中に、子どものころ車に轢かれて下半身不随になり、いまも車いすで生活している人がいるけれども、彼に対して、同情なんて気持ちはまったくわかなかった。 元気すぎて。(笑) 学生のころも、彼は友達とサッカーボールを(車いすで)けっ飛ばし、歓声というか奇声をあげて、必死にボールを追いかけていた。その姿を見て、誰が障害者などという言葉を思い浮かべただろう。普通の元気な少年そのものだった。 同情されるのは、障害があるからではなく、相手が無理解だからでもなく、自分が不幸そうな顔をしているからだ。そういう人は、自分の思うようにいかない現実に常に苛立っているから、誰かに噛みつきたくてしょうがない。何か言ってきたら、とにかくそれにケチをつけて、おまえが悪いのだ、分かっていないのだ、低レベルなのだと感情的に噛みつき、罵倒するのが目的というか、そうしたいのであって、相手の言っている内容も自分の言っていることも、実はどうでもいいんだな。考えやポリシーがあるわけでもなんでもない。 始終そうだから誰も近寄らなくなり、ますます不満が溜まり、不幸になっていくという悪循環から抜け出せない。 しょうがないじゃないか、と言われそうだが大丈夫。オレは抜けた。 人間は、自然――絶対的な宇宙の運行法則とでもいうべきもの(話しがデカイが)に沿っているかぎり、幸せになるようにできている。そこからずれては不幸にならざるを得ない。物事は自分を中心に展開している、というのも法則。だから、自分の何がこの事態を招いたのかを理解できれば楽になる。楽になる(サボるとか怠惰という意味ではないよ)ということは正しい――法則に沿っているからだ。そういう、自分の自然な(快の)感覚を通して法則が分かる。 ○○でなくてはならない、という概念。誰が決めたのだ。そんなものを中心にすべきではない。自分の自然な感覚を忘れてはいかん。既成概念や考えというものを捨てていかないと本来の感覚は現れてこないから頭のいい人ほど難しいのだけれども……。 ま、わしアホやし。(笑) ●それどころじゃない 白装束集団。興味ある? 本当に? 近所に来たというので見物に行くヤツもいるようだが、(職業的に仕方なく相手にしないといけない人は省いて)それは対象と同レベルであることをあらわしてしまっている。突然、かの集団が現れたわけではなく、何年も前から存在し、全国を放浪していたのに、いまになって騒がなくてもいいと思うんだけどね。マスコミが大々的に取り上げたからといって、いちいちのっからんでもよろしい。一般的な感覚からいって、怪しいのは怪しいし、オウムという悪例があるから不安になるのも分かるけれども、見えないだけで、あのようなカルトは数えだしたらキリがないほど存在している。あまり気にしない方がよろしかろう。 見に行くとかだけでなく、逐一報道される情報に魅入ったり、勝手な感想を言っていられるほど、納得いく人生やっていると言えるのかというと……。 良くなりたいという気持ちがあるから、苦しみもする。だが、それでいい。 もう、他人のことをとやかく言っている場合じゃない。宇宙規模の変化がせまっている――なんて書くとそれこそコイツもなにかのカルトかと思われかねないのだけれども、事実としてそういうことはあります。知識ではなく、感じている人も多いと思うんだけど。 その時、じたばたしないで、どのようになっても文句ありません、といえるよう生きていけますように。
おおみち礼治
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