おおみち礼治のてくてく日記
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2003年03月27日(木) ●反戦について●自分について

 以前は、アメリカの戦争体質(?)について、ずいぶん批判的なことをいったけれども、反戦ムードが高まってくると、今度は逆のことを言いたくなる。(笑)
 いや、決して天の邪鬼なわけではなく――たとえば、壁にかけてある絵が右に傾いていたら左に戻し、左に傾いていたら右に戻したくなる感覚と同じと思っていただきたい。
 戦争が右とすれば、反戦、もしくは平和運動が左ということになろうか。
 どちらも中心ではありません。
 本当に、戦争がいやな人は、反戦運動もしません。普通に生活し、自分の役割(仕事)をきちんとこなしながら、日々の生活を楽しんでいます。
 戦争も反戦も、何かに対して戦っているという点では同じ。だから、反戦活動をするような人が、戦争を起こしたりする。
 ちょっと考えれば分かるけれども、そのような左右の現象にとらわれず、日々の仕事を坦々とこなしているのと、反戦活動という戦争――アジテーションに踊らされ、ここぞ自分を表現する場であると大使館の前で声を上げるのと、どっちが世の中安定してくるんでしょうーか、という話しだ。
 無抵抗主義を唱える気はないし、イラク戦争を対岸の火事と決め込むわけでもないが、左右どちらに傾いても、それは自然ではない。主義をいうなら、中庸主義、もしくは老子的無為自然を標榜するわたくしとしては、どちらも不自由の極みと感ぜられる。

 アメリカを支持せざるを得ない日本だけれども、中庸主義とは違う、どちらつかずの態度が、その不自由を発生させていることが見えてくる。
 憲法第九条はすばらしい憲法だと思うが、これを貫くならアメリカ軍には出ていってもらい、自衛隊もたとえば災害救助隊に特化するなどして、完全に武装解除するべきだし、いや、やはり自国を守るには軍隊が必要だというなら、九条を放棄し、アメリカに頼るのではない、自国の軍隊を本格的に整備すべきであろう。
 どうしたいのかという、中核となる意識というか、方針、または覚悟が不明瞭なままでいたら、結局、他人に利用されるだけで、自由自在とはほど遠くなってしまう。これは、国レベルだけではなく、個人レベルにおいても同じ事がいえる。
 依存するのは楽だが、不自由も生まれる。自立は自由自在の元だが、覚悟がいる。たとえば、完全に武装解除して他国に攻められたときに――まあ、完全に戦争放棄した国に攻め込む国があったとしても、それは国際社会が許さないだろうから、ずっとされるがままということはないだろうが、一時的な痛み、被害はどうしてもでる。その被害を乗り越える覚悟がいる。
 それでも我々は戦争しない、という覚悟。
 それを政府や社会に求めるのではなく、自分にあるのか確認するのが最初だね。批判するくせに、政府がどうにかしてくれるだろう、役所が対応してくれるだろうと思い込んでいないか。依存心や曖昧な態度は、他でもない自分にあり、その延長線上に政府の対応がある。

 時には批判も必要だろうが、他人のことをとやかくいうだけなのはバランスが悪い。文句を言う相手(事象)が変わるだけで、50年前から言っていることが同じってゆー人っていませんか? それって、その50年の間に進歩があったんでしょうか? なにをしていたんでしょうか?
 他人を批判したところで、自分自身の進化、深化はないことが分かります。では、自分を批判すればいいのかということになるけれども、これも左右であり、批判には変わりないから、あまり意味はない。
 そうではなく、他人を理解する。自分を理解する。これが中心でありましょう。物事を左右(善悪)に分けない。ただ、現象を現象として、ゼロ(中心)の目で見て、そうしていたらどうなるのか、そうしなかったらどうなるのか理解していく。
 これこそ、進化というものです。

 なんか、だんだん論旨が変わってますが(笑)、ついでなので、最近になって20年前――自我が芽生えてからの問いがなんだったのか言葉で理解し、また、その問いに充分答えられるものに出会っていたことが分かったので、そのことについて少し。
 問いというのは、仕事、趣味、恋愛、お金、地位、名誉……さまざまな、価値があるけれども、そのどれか、極端にいってすべて極めたとして、それでなんなの? というものだった。
 その答えというか、自分が求めていたものとは、自分自身の意識を高めていく――進化、ということだった。これがなくては前の話しと繋がらないので、ついでではなく、別の話になってしまうのだけれども。
 そーいうことって、みんな考えないのかな?
 その点よく分からないのだが、たとえば、事業を立ち上げて成功し、お金を稼ぎまくって、女の子にもてまくり、いいものを着て、いいものを食って……だとして、それでなんなの? とは思わないんでしょーか。
 それぞれ価値のあることは分かるのだが、いつかは死ぬからね。現世でどんなに羽振りがよくても、死んだ後、あの世に持っていけるわけでもなく――また、それら現世の権勢など、個人の本質が問われる場では、何ら意味をもたないことが無意識のうちに分かっていたし、現世でのそういう人の本質とは関係のないところで、こいつはどの程度の奴なのかと判断されてしまうことのおかしさにあきれていたりした。
 自分は、今回の人生の中で何をしていけばいいのか――単に職業を選ぶだけのことではなく、どうすれば自分の意識、本質を磨いていけるのか、高めていけるのか分からなくて、自分を見失い、虚無感に覆われ、病気になったところで出会ったものがあった。
 ここでは、それがなんなのか書かないけどね。
 一時は、求めるものは宗教にあるとも考えたが、宗教は似て非なるものだと分かった。私の知りたかったのは、人間の考え出した概念、哲学ではなく、自然法則なのだった。単なる科学法則ではなく、それを含め、現世だけではなくあの世といった多次元的な宇宙全体の成り立ち、絶対的な運行法則とでもいうべきもの。
 なんだそりゃ、って思う?
 そんなことより、お金の方がいいですか?
 それはそれで構わない。ノープロブレム。(笑) それぞれ魂の質が違うし、わたしみたいな人間ばかりだったら、社会は成り立たないからね。いろいろな人、価値があって、はじめて社会が成り立っていくのだから、それでいい。
 世の中の一般的な価値観や概念にひきずられ、社会とは人生とはそんなもの、そうしなくてどうするんだ、という未熟な魂の高圧的かつ揶揄するような態度に萎縮し、問いを置き去りにして、なんとかそれに対応しようと、自分を失っていた若い頃があったのですよ。でも、病気をしたことで、問いと自分の人生を取り戻せた。いや、人生については、取り戻しつつあるといったところだけれども。
 人生なにひとつ悪いことなど起こらない、というのは、意識を高めていく過程で理解したことのひとつだ。考え、概念ではありませんよ。そういう法則があるのですね。そう思えないのは、理解していないだけなのです。

 かっこつけるわけでもないし、どう思われようなどというイヤらしい気持ちもありません。素直に、わたしはそういう奴なんですな。
 自分が分かると、方向性も明確になるので、気持ちが楽です。覚悟は要るけどね。


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