おおみち礼治のてくてく日記
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2002年11月06日(水) ●話題づくり●それでよか

●話題づくり
 「電波少年」にしろ、この前の「キム・ヘギョンさんの単独インタビュー」にせよ、大抵の人が憤りを感じる放送をして、ひどく批判されても、仕掛けた側はしめしめと思っていることが多いようだ。内容の是非は関係なく、話題を作ったという点で、彼らにしてみれば「してやった」のである。
 こういう精神性は編集者にも見受けられる。売れてなんぼであるから、注目される記事を書くのは当たり前かもしれない。が、おれはいやだ。
 人に誠実であり続けたい。
 だから売れないんだろうけど(^^;、人を傷つけたり怒らせて、してやった、などと喜ぶ人間にはなりたくない。
 まあ、ほうっておけばよろしい。気に入らないものを相手にしていく人生と、気に入ったものをやっていく人生とどっちがいいかといえば、言うまでもない。
 でも、気に入らない人でも生きているからね。思い知らせてやろうなんて考えず、そういうものに出会ったら、自分が安全なように捌いて(理解して)、あとは忘れることだ。いちいち想念を出さない。

●それでよか
 この前、家の塀にぶつかった車のことで、急ぎすぎていないか、とか、もっと腰を据えてなんて書いたけど、何か違和感があったんだよね。
 気が付いたのは、「ぶつかった人は、ぶつかることで助けられた。そうやって止められるような、中心がずれたことをやっていた。もし、ぶつからずにそのまま行っていたら死んでいた」のですな。
 自分のことに置き換えると、例えば透析をしているのは「病気をすることで助けられた。そうやって止められる(動けなくなる)ような、中心がずれたことをやっていた。もし、病気をしなかったら、死んでいた」のだ。
 つまり、病気をせずに、それまでのやり方を続けていたら命が危なかったのですよ。病気になり「それまでのやり方」が出来ない状況になったことで「命が保たれている」という理解。
 短いスパンで見たら都合の悪いことでも、長いスパンで見ると――というか、なぜそれでいいのか理解できると、人生悪いことなど起こらないのだな、と分かる。
 先のことは分からないので、つい不安になったり愚痴ったりすることもあるけれども、いま「そう」なのは、実はそれで良いから「そう」なのだ。ただ、別に話として、このまま行ったらまずい、というときには、強引にでも変えないといけない。

 人生をマラソンに例えるなら――いままで調子よく走れていたのが、急におなかが痛くなり走れなくなってしまった、とする。多くの人は、痛みを抑える薬を飲んで、また走り出してしまう。すると目の前に泥沼が現れ、(勢いよく走っているから)足を取られてぶっ倒れるのである。
 細胞は、もうすぐ泥沼だと分かっているので(この勢いで行ったら危ないから)、おなかを痛くするなどの現象を起こし、ブレーキをかける。
 そういうことが分かっている人は、(先のことは分からないけれども)いまはこれで良いのだとしてゆっくり歩く。そして泥沼が現れても、そのままゆっくりわたっていけるのですね。
 病気ひとつしない元気な人がいきなり亡くなることってあるよね。これは、逆に言えば、病気ひとつできなかった、のだ。病気をした方がいいということもある。

 いちばんいいのは、おなかが痛くなる前に、このまま行ったらまずいぞ、と分かることなんだけど――まだまだそこまで達しません。


おおみち礼治 |MAIL

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