2004年07月24日(土) |
ナイチンゲールに憧れたことは一度もない |
ずっといろんなことを考えてた。 けれど記録に残す気力もなく、ただ毎日を想いの渦の中に埋没させていく。 いや、想いが毎日の中に埋没しているのか。
みんなそんなもんだろうと思う。 思いたい。 今は、文章にすることで自分が感じていることを正しく記録できる自信がない。
とりあえず、今している仕事のことについて、いつもの場所に吐きだしてみた。 やっぱり欲しい答えは貰えなかった。 というより、欲しい答えなんてないんだろう。 そして、これ以上言ったら、出てくる言葉はひとつしかない。
「じゃあ、やめれば?」
それにすべて収束してしまう。 ではどうして「やめない」のかというと、「やめられない」だけなんだと思う。
「介護」という仕事をしている。 その仕事の中で、自分の毎日を「消費」しているという気がしてならない。 そうして、自分の中にある何かを「摩耗」させていっているだけとしか思えないのだ。
ある場所に私はこう書いた。
「先のない、このまま悪化はしても良くはならない痴呆の老いた人達が、ただゆっくり死に近づいて行くのに寄り添ってるだけの、そんな仕事にどんな意義があるんだろう…」
こう書いて、私は「なぐさめ」が欲しくて書いているのかもなぁ…と思った。 もらった言葉はすばらしい言葉だった。
「老いていく事は 誰にも避けられない事だよ 痴呆だって 好きでなる訳じゃない 残された時間をどう過ごすかが大切な事だと思う 時間の長さより充実した時間を過ごさせてあげる それが手助けができる仕事なんだもん ×××さん 胸張って」
好きで痴呆になれる人なんていない。それはわかっているし、だけど家族は苦悩するんだと思う。突然の問題行動や暴言や乱暴に、困っているだろうと思う。 その人たちの助けにはなるだろうと思う。
けれど。 「私には何が残るの?」 って思いっきり自己中なことを最近は考えてしまうのだ。 「では、私の残っている人生も、その入れ替わり立ち替わりやってくる人たちのために、削られて消費されていくわけなんだな」なんて考えてしまうのだ。考えたらだめだと思えば思うほど、その考えに固執してしまう。 立派な仕事だとか、えらいねとか大変だねとか、そんな言葉なんて貰ったからって、どうなるんだろう。そんなものなんの役にも立ちはしない。そんな言葉が私に何をしてくれると言うんだろう。一番空しくひびく言葉だ。
やめた方がいいのかもしれない。 他人のために何かすることが、好きな人間とそうじゃない人間がいる。 私は後者だと思う。
ナイチンゲールに憧れたことは一度もない。 万人に尽くし、いろんな人達を助けることに快感を覚えたことなどない。 こんな人間に介護される人こそ、気の毒じゃないか。
何かが間違えてる。
姉は「なんでこんな簡単なことも出来なくなるわけ?できないってことが理解できない。なんでもいいかげんに済ませちゃうんだから」と、老人に対して疑問を持つ。 それに対して(なぜ、老いるとはそういうもの、痴呆になるとはそういうことだと、そのまま受け入れられないんだろう。本人のせいいっぱいがそこまでなんだと理解してあげないんだろう)と重ねて疑問を持ちながら、では私は何がわかると言うのか、そこに行きあたったのが最初かもしれない。
私は何も専門的なことは学んでいない。 ただあるがままに、ただ受け入れているだけ。 疑問すら抱かない。
その人はある特有の事象を理解できなくなったのなら、そうなのだと。 ただ諾々とそうかと受け入れて、ただ「大丈夫だよ、心配しなくていいよ、がんばったね、ありがとう、よかった」と繰り返している。 果たしてそれでいいのか。 何もかも諦めきっているのと同じじゃないんだろうか。
「痴呆の人の行動を改めさせようとしてはいけない。痴呆の人の考えを改めさせようとしてはいけない。試してもいけない。」
けれど…。 可能性を探すのは、どこまでが妥当でどこまでが彼らに対して負担なのかもわからないまま、ただ諾々とあるがまま。 何も変わらない。
そんなんでいいの? 本当にこのままでいいの?
例えば肉体労働があったとしたら。 工事にしてみても、その現場が終れば達成感が得られる。 何かを作りだす仕事なら、言うまでもない。 事務にしたって、小さな達成感の積み上げだと思う。 ずっと事務をしてきていたから、そう思う。 たとえ自己満足だとしても、美しい完ぺきな書類を作り上げた時にはうれしくなる。 自分に対して「がんばったよねー、えらいえらい」と言いたくなれる。
今の仕事には、それがない。 小さくても、心に対する報酬がない、とそう感じる。 「他人が忌避する仕事」をしているからどうしたと言うのだ。 「私が幸せでない仕事」になんの意味があるのだろう。
ずっと感情を殺して、笑顔マシーンになる。
失敗があれば、周りの人達からはフォローがあっても、自分の身内からはミソッカスのように扱われる。がんばったことは何ひとつ評価されず、気に入らないことだけ次々と言われるのだ。 ではガンは「身内」なのだろうか。 もしかしてそうなのだろうか。
施設に来ている痴呆の老人たちは、色んな人がいるけれど、基本的に私はどの人も嫌いじゃない。 笑顔を向ければ笑顔を返してくれるから。 問題行動を起こされると、仕方ないなと肩をすくめたりもするけれど、基本的に嫌いだと思ったお年寄りはいない。窓の外から「おはよー」って手を振れば、笑って手を振り返してくれる。
もし、他の介護施設で働いたとしたなら、私はこんな風に思わないのだろうか。 あの笑顔や、家族よりも私たちにいい笑顔を向けてくれた時の優越感は、小さな報酬には違いないだろうけど。
このまま資格を取って、本格的にこの仕事につくべく努力するべきか。 その方が一番効率はいいと思う。 けれどこの仕事をずっと続けていくということは、他にやりたかったことを捨てることになる。
だから、今の中途半端な気持ちでいる自分に対してGOサインを出せずにいる。別に資格を取ったからと言ってそれ以外に選択肢がないわけではないけれど。 どうしても受け入れがたい何かがあるのだ。
本当はわかっているかもな。 身内と同じ場所で働いているせいな部分が大きいと。
こんないい年になって、姉から突然後からTシャツのすそを強くひっぱられて引き戻され「あんたがここにいる必要はない」と囁かれたりするのは、人として尊重されていないと強く感じるものだと思う。 私は私の判断で行動しているのだけれど、彼女にはそれが理解できない。 というか、彼女は自分の描いたスケジュール通りに他人が行動しないことが、我慢ならないのだ。
職場の他の人達からも、お姉さんはきつい性格だねとは囁かれるけれど。 私なら娘にあんな言葉を言われたら泣いてしまう、と温厚なアヤコさんが言うほど、母親に対してもきつい。 相手の状況も関係なく、自分の主張を通そうとするのは、似た者親子とは思うけれど、すべてにおいて「詰問口調」だから余計にきつく感じるのだろう。
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