Mother (介護日記)
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2003年05月04日(日)  4/26 臨終

先週の土曜日のこと・・・

救急処置室に運び込まれた母は、内科の顔見知りの看護婦に迎えられた。

「しげちゃん、良かったね〜 おうちに帰れたんだって? 
 あんなに帰りたがっていたんだもんね〜 大丈夫、今日は私がいるからね〜 」

私は事前に作成してあったファイルを救急隊に渡して、必要な情報を拾ってもらった。

院長がやって来たので、私は「お願いします」 と言った。

院長は救急隊に状況の確認をした。

「到着時、すでに呼吸停止でした。
 心電図の反応もありませんでした。 通報時間は・・・」 と言いかけると、

別の隊員が調べてきて、「3時31分です」 と答えた。

院長は腕時計を見た。

「3時・・・さんじゅう・・・」 と言いかけて今度は壁の掛け時計を見た。

そしてまた腕時計を見た。 どうも院長の腕時計は遅れているらしかった。

それを察した救急隊員と看護婦が、「3時57分です」 と口をそろえた。

「3時57分、ご臨終です」 と私に頭を下げた。 

本当に、そう言うんだ・・・ドラマみたいだと思った。

私は「ありがとうございます」 と言ってしまったが、本来はそこで合掌をするらしい。

院長は速やかに退室して、救急隊もストレッチャーを片付けて出て行った。

看護婦が
「それじゃ、キレイにするので、ちょっと待っていてね。
 お迎えの(葬儀社の車を決めて)連絡をして来てもらってね。・・・大丈夫?」 と言った。

「(私は母の)自慢の娘ですから」 と言ってロビーに出た。

私は、母の左腕に、昨夜絹江がはめたばかりの安物の2本のブレスレットに気付いたが、
服を着替えさせる時に看護婦が気付くだろうと思ってそのことには触れずにおいた。



土曜日の午後で、既に診療は終わっており、ロビーの照明は消されて薄暗かった。
これが平日の診療時間中の混雑している中だったらどうだったろう・・・

レフティーと絹江はまだ来ないのか・・・ 心細かった。
だけど、1人だから泣けなかった。

私は「ええと・・・ええと・・・ええと・・・」 を繰り返して、
ファイルをめくりながらどこに連絡をすればいいのかと考えていた。
何件かの友達にメールを送信したと思う。



葬儀屋さんはすでに選んでおいた。
そのホールには、2度ほど通夜で出掛けたことがあり、
病院からも駅からも近く比較的便が良いところにある。

実はつい先日、パンフレットをもらって来たばかりだった。
退院させる準備と平行に、葬儀社との具体的なことも、
ある程度知っておかなくてはならなかったからだ。

葬儀屋さんに電話をかけた。
私はずっとホールでの葬儀を考えていたが、
ホンの数日前、のらさんの勧めもあって自宅でやろうと考えが変わっていた。

自宅に電話をすると、まだレフティーと絹江がいたので、
そのまま家で母を迎える準備をしてもらうことにした。
葬儀屋さんは、家具の移動まではしないらしいのだ。



救急の患者が新たに運ばれて来たため、
母は内科の処置室に移動し、そこで着替えをしているらしかった。

葬儀屋さんの到着が早かったので、しばらく待っていただくことになった。

私は看護婦に「お化粧、一緒にやる?」 と呼ばれて処置室の中に入った。

既に母は新しい浴衣を着ており、両手は胸の上で組んでヒモで固定されていた。

“あ・・・指輪が・・・ブレスレットが・・・” 
もう無理なような気がして言い出せなかった。

病院の“専用の”化粧品がポーチに入っていたが、
失礼ながら、ファンデーションのスポンジの汚さに、とてもそれを使う気になれず、
私が持っていた乳液状の日焼け止め兼用下地を指で薄く延ばしてあげた。

口紅も、母も私もとても使わないような、際どいオレンジ系であったため、
こちらも私のピンク系をさしてあげたが、母の唇はあまりに薄かった。



仕度が整い、葬儀屋さんのストレッチャーに移され、
オシャレなレースのカバーのついた枕を使い、
サテン生地の薄い綿入りのお布団を掛けてもらって、
病院の裏口から看護婦2名に丁重に見送られて、自宅に戻って来た。

救急車の要請をしてから自宅に戻ってくるまで、わずか2時間だった。
不思議な感じがした。

霊柩車も、今は外見は大型のワゴン車であって、それと気付かない人も多いだろうと思った。

運転手である葬儀屋さんに、指輪とブレスレットについて聞いてみた。
ブレスレットは別に良かったが、指輪は欲しかった。
しかし既に合掌しており、母の関節も太く、今から抜くのは無理だと言うことだった。
母の物なのであるから、母が持って行くのはそれで良いと思った。



家ではレフティーと絹江が家具を移動し、母を安置するスペースを作っていた。

今日、買って来たばかりのピンクのカーペットを敷き、
昨日、私と一緒に寝たダブルの敷き布団に、今日は母が1人で横たわった。

その後、あわただしく葬儀の準備が始まった。

絹江は、母の顔にハンカチを掛けるのはかわいそうだとか、
ドライアイスが冷たくて重いからかわいそうだと言って、その度に泣いていたが、
私には絹江を慰める余裕がなかった。
次々に決めなくてはいけないことがあって追いまくられていたし、
電話を掛けたり、かかって来たりで、絹江の肩を抱こうものなら、
そのまま一緒に泣き崩れてどうしようもなくなるだろうと思ったからだ。

これは、葬儀が終わるまでずっと続いた。
ボロボロと涙を流し、時には声を上げて泣く絹江を、
私はできるだけ見ないようにしていたし、抱きしめてあげなかった・・・

その後遺症なのか、その後も私は泣けなくなってしまった。


自宅での葬儀のつもりであったが、
借家の場合は大家さんが良い顔をしないらしいとの話しがあった。
実際、すぐに駆けつけた大家さんの顔色を伺ってみたが、やはり同様であった。
そこで、公民館での葬儀を考えたが、
今度は町内会長らの判断で “葬儀は前例がないから” との理由で断られた。

結局、ホールを借りての葬儀に決まった。


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