Mother (介護日記)
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2003年05月03日(土) |
4/26 最期の30分 |
先週の土曜日・・・
母を連れて帰ってきたと言うのに、レフティーは呑気なものでお昼まで寝ていた。 異動の準備で、精神的にも肉体的にも疲れているのだから仕方がないが。
ケアマネからの電話で母のベッドが30日に入ることになったので、 それまでにカーペットを敷いておかなくてはならない。 そこで、レフティーと絹江は2時を過ぎた頃、買い物に出掛けた。
今思えば、この時はまだホンの数時間のうちに亡くなるとは考えていなかった。 だから二人を買い物に行かせたのだと思う。
それでも二人がいない間に母に万一のことがあったら、 当然のことながら私はすぐに救急車で病院に運ぶことを申し合わせてあった。 そして二人が出かける前、しっかり母に挨拶をしておくようにと呼び止めた。
その後、母の熱を計ったところ、38.3度あって額に濡れたタオルを載せた。 冷凍室にアイスノンを入れて冷やし始めた。
2度目に計った時には、38.7度まで上がっていた。
右の肺は、まるでイビキをかいているかのような音を立てて動いていた。
心臓は、間違いではないかと何度も測りなおしたが、5秒間に15回打っていた。 10秒で30回、60秒では180回という計算であった。
この状況で救急車を呼ぶべきか、と考えた。 しかし、私はすべてを背負って母を自宅に連れ帰って来たのではないか。 今更、解熱剤でも使おうと言うのか・・・
母は、それでも苦しそうではなくて、ただ少し早い呼吸を繰り返していた。
私は母に頬擦りをして、耳元で「ありがとう」と言った。
その後、のんたから電話があって、のらさんと一緒に母のお見舞いに来ることになった。
危篤状態に近い母を見るのは辛いのではないかと私は心配したが、 二人とも父親を亡くしており、一人っ子なのであって、 いずれの日にかこのような場面を迎えるのだという覚悟もあったようだった。
母は、目を開いたりウトウトしたりの状態であったが、 持って来てくれたお花を見せると、わずかに微笑んだ。
「何かあったら、すぐに電話してね」 とのらさんが言ってくれて、 二人は30分ほどで帰って行った。
直後にレフティーから電話があった。
「今、近所のスーパーにいるけど、おまえ、何か欲しいものある?」
「別にない。 今、のらさんとのんたがお見舞いに来てくれて帰ったところ」
「あぁそう。 ば〜さんは?」
「死にそうだけど」
「それじゃ、もうすぐ帰るから」
その後、私は市内に住む親戚に電話をかけようとして居間の受話器を取ったが、 ハッとして子機に持ち替え、母の枕元に移動した。
いくら耳が聞こえないとは言え、 本人の目の前で危篤の電話をすると言うことに多少の躊躇いはあった。
しかし・・・
親戚との電話が終わり、子機を置いて母に目をやると、母は動いていなかった。
え? たった今まで、ホンの数秒前まで、 電話をしながら真横で息をしている母を見ていたのに。 最期の瞬間は手を握ったままで・・・などと言う考えは甘かった。
「ば〜ちゃん、ば〜ちゃん」 と少しゆすって見たが、動かなかった。 とても安らかな顔だった・・・と言うよりも、 “安らかな顔” とはこういう顔を言うのだろうと思った。
電話の最中に、 それまで早かった呼吸が私たちと同じようなゆっくりしたものに変わったことには気付いていた。 それが、ただ“止まった” だけのことで、母は何も苦しまず、眠るように逝った。
私、ひとりか・・・
目の前に子機があることも忘れて私は居間へ走り、 電話機に貼ったメモを見ながら、救急車を呼んだ。
それから、玄関のドアを開け、お向かいのご主人に窓から話し掛けた。
「母の呼吸が止まったので救急車を呼びます。 ご迷惑をお掛けするかも知れませんがよろしくお願いします。」
昨夜からの状況を、いやこの1ヶ月の流れを全く知らないお向かいさんは、 寝転がってテレビを見ていたところに急にそんなことを言われてキョトンとしていた。
“非常持ち出し”は既に“いつもの荷物”になっていたので準備が楽だった。
続いて、病院の内科病棟に連絡を入れた。
そしてレフティーのケータイにも。 レフティーはその時、スーパーのレジで会計をしていた。
さらに、つい10分前までここにいたのらさんにも。
救急車が来るまで、とても長く感じた。
おかげで救急車が到着するよりも早くレフティーの車が戻って来て、 レフティーと絹江はまだやわらかくて温かい母に触れることができた。
救急車のサイレンが聞こえて来たので、私は玄関を出て合図を送った。
3人の救急隊が部屋に入り、呼吸停止を確認。 まだ温かい母の体に触れて、「通報までに何分ありましたか?」と聞かれて、 「1分です」と答えた。
担架に乗せられストレッチャーに移され、私も一緒に救急車に乗り込んだ。 レフティーには、後から来るようにと言った。
私は私で、非常時だと言うのに「洗濯物を取り込んで」 などと指示を出しており、 レフティーはレフティーで、 洗濯物を取り込んだ後、ご丁寧に絹江と一緒にすべてをたたんだとのことだった。
救急車の中では、酸素マスクがはめられ、 心電図を撮りながら胸を圧迫して人口呼吸が施された。 骨粗鬆症で骨も弱くなっており、肺を押すのはかわいそうだと思って、つい 「もう何もしなくていいんです」 と言ってしまったが、 「最終的な診断は、お医者さんがすることですから」 と諭された。
あの日、既に何件かのサイレンを聴いた後だったからかも知れないが、 自分の乗っている救急車の他にも数台がこの道を走っているかのように、 サイレンがいくつもに聞こえてくるので隊員に聞くと、 「今はこれ1台ですよ。 反響しますからね」 と優しく答えてくれた。
私は親戚などに連絡をしようと思うのだけど、とても口に出して言えそうになく、 友達にメールを送信しようと思えば何度も間違えてしまい、かなりパニクっていたらしい。
家に電話をして、レフティーに親戚への連絡をしてもらうように頼んだ。
私は、なんとか一筆箋にカキコができた。
救急車の中でケータイをいじっていたので、多少、気が逸れたのだが、 さすがに病院に到着した際には、救急車から降りた私はヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
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