日々のカルテ
There is no accounting for tastes.

2002年02月10日(日) 切。

あ〜あ、切ない。

良い話を書きたいのだけでも、

良い絵を描きたいのだけども、

こう、人の心をひょいっとさらえる程の良いモノを書きたいのだけども、

さらって、虜にするぐらいのモノを描きたいのだけども、

如何せん、私には人生経験が少ない。

全くのゼロではない。

無ではナシに。

無だと、謙遜でも言い切ることは嫌だ。

今まで私が生きてきたこと、感じたこと、満足したこと、切なかったこと、苦しかったこと、どうにもならない感情だとか、まだ分類もしていない感情を全て否定する。

それすなわち、私存在の否定。

私は、まだ生きていたいから、電車にはねられて死ぬのも嫌だから、存在否定はしたくない。

あるものはある。

無いものはない。

それで生きていくしかないから、腹を括ってはいる。

時の流れゆくままに、身を任せることが少なくなった。

昔の、新鮮な感覚には戻れないモノかと試してみた。





・・・・・・案外、やれば出来るかも知れないと、思った。





思ったが、それはあの頃と全く同じモノではなかった。

似て非なるモノだった。

その代わり、それをして何となく分かったことがある。




幼い頃に共通して抱いていたと思われる空想空間というモノについて。




子供はよくその空間を使って空想遊びを展開する。

それも、逞しいほどに。

数人でそれをしていたとしても、全く同じく空想が各々の中で展開されているわけではない。

じゃあ、何故それを共有して遊べるか。

簡単。

彼らは、各々の交わった部分を共有するのだ。

まずは設定がある。

それは共有するモノ。

その設定が、基本となって子供は遊ぶ。

しかし、展開される空想というのは、各々見えるものも異なってくる。

丁度、各々の影のようにそれぞれ形が違う、否、所有するモノが違う。

それが交わった部分が共有部分。

だから、彼らは必ずしも全く同じモノ全てを体験しているわけではない。

全く同じモノ一部を体験している。

しかし、その時分にはその区別は付かない。

でも、今ならそのことの区別が付いてひょっとしたら数人分の空想が広げられるかも知れない。

今でも、自分一人分の空想しかできないかも知れない。

でも、可能性はある。


それが、最近なんとなしに分かったもの。



でも、やっぱり、ちゃんとこうやって何かを考える(哲学と言ったら、哲学をしている人に失礼になるかも知れないが)ことが出来るなら、その内良い話がかけるかも知れない。

こうやって考えることが、肥やしになるのかも知れない。

かけないかも知れない、書けるかも知れない。





それは、やってみなければ分からないこと。













さぁ、箱の中身を開けて驚いて?




それは、驚嘆?


それとも失望??











どっちかなんて、開けてみるまで分からない。










 そこ。  ここ。  どこ。


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