ヤグネットの毎日
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2003年06月23日(月) 「話のはなし」を読む

 前にも書いたが、川上貫一さんの『話のはなし』(三一新書)を読み終えた。川上さんは、戦後直後から日本共産党の衆議院議員を三期つとめられ、また党本部で宣伝教育分野の仕事をされてきた方。
 この本には、演説、座談、講演等、およそ「人前で話をする」さいのハウ・ツー的な問題もふくめて、細かい点までの具体的なアドバイスが書かれている。半世紀も前にかかれたものであるにもかかわらず、今日もなおたくさんの示唆をあたえてくれる内容だ。
 「あとがき」で著者は、「話」とは「話術ではない」として、次のように語る。とても印象的だった。

 講演も演説も、また座談一つにしても、そのよしあしは技巧でもなければ、話術でもない。それはその人の思想であり、識見であり、内容であり、つまりはその「人」なのである。どれほど苦心しても、自分以上の話はできるものではもないし、いくら下手でも、その話は、けっしてその人以下になるものでもない。

「鳥のまさに、死なんとするや、その声悲し。人のまさに、死なんとするや、その言よし。」という言葉があるが、人間はだれでも、私利私欲をはなれたとき、その言うことは美しいと、いうことであろう。話もまた、同じことである。だから、話はむつかしいものであり、また、やさしいものなのである。

 形も大事だが、それよりももっと大事なのは、話を伝えたいという、「自らの心」であり、訴えたいと思う「中身」だ、ということだろう。大いに学ばされた一冊だ。




 月曜日から保育園で「沐浴」がはじまるので、新しいビーチバックを買いに出た。同じフロアーにゲームコーナーがある。息子はさっそくそこに飛び込んで、ファイティング系のゲームをやりはじめた。
 わが家では、テレビゲームだけは購入しないことをきめている。ふだん、家ではやらないのでこういうところでは、息子はものめずらしくて仕方がない。ゲームが子どもの脳の成長、発達に与える悪影響をいろんな本で知っているので、息子がのめりこむ前に引きはなさなくてはならない。
 かわいそうだったが、最後は力づくでゲーム機の前から引き離した。かわいそうだったけれど。
 
 ゲームは、子どもたにとって魅力的だ。そういうふうにできている。しかし、のめりこむことはよくないことだと思う。子どもが自分でけじめをつけられない時期には、ある程度強引な手段にでることも仕方ないことだと思うのだが、みなさんはどう考えるだろうか?



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