長年に渡り、うちのおばあちゃんは家の雨戸を閉める係である。 特に家族会議などを行ない決めたことではない。 自然とそうなのである。 おばあちゃんは二階の雨戸を閉める時、その場に僕がいれば、決まって「誰も雨戸を閉めない」と文句を言っている。 それなのに、僕は「代わってあげようか」とも何とも声をかけないでいる。 率直に言えば、代わる気になれないからである。 なんと気の抜けた理由だろう。 しかし、それが本当である。 毎日毎日毎日毎日のサイクルの中で、僕は家の雨戸を閉めるという役割を担っていない。 だからおばあちゃんに「誰も雨戸を閉めない」に聞かされるまで、雨戸を閉めるということを思いつきもしない。 もしも雨戸を閉めないことが世の中でいいとされていなかったら、僕は<生活習慣病>の人間であると称されることだろう。 それは生活の中で自分が気づかないうちに雨戸を閉めないことに慣れてしまい、いつのまにかその存在さえも自分のなかから締め出されているが故の、<生活習慣病>である。 しかし、実際に世の中でそれをしないことが許されない状況であったなら、今頃僕は毎日起きなければいけない時間に起きるように、雨戸だって必ず閉めているだろう。 ただ、今急にそういうことが言われるようになったら、それは困る。 しかし、それも初めだけのことだろう。 その証拠に僕は消費税が上がっても暴動を起こさなかったし、カメラ付き携帯電話が登場し個人の肖像権が起こされそうになっても、文句は言っていない。 それらには何かしらのデメリットを越えるメリットがあるからである。 ただし、幸い皆が雨戸を閉めることを義務づけられる法律や条例は決まりそうにもない。 そうすることに誰もが多大どころか少しのメリットも見出せられないからである。 そういうこともあり、僕は雨戸を閉めるという行為を自分から遠く離れた星を、それも望遠鏡を使って初めて確認できるようなそれを眺めるように認識している。 つまり、僕のおばあちゃんは雨戸を閉めるという行為を覗かせてくれる望遠鏡だと言える。 それにしてもおばあちゃんも、先程述べたような文句を言いながらも毎日、自分で雨戸を閉めるから悪いのではないか? 嫌だったらほったらかしにしておくなりして、他人に任せようとすればいい。 嫌嫌ながらもそれをやっているということは、きっと雨戸を閉めるということが、おばあちゃんの生活習慣として定着しているからである。 言わば、僕は雨戸を閉めない、おばあちゃんは雨戸を閉める生活習慣病に侵されているのだ。 こう考えると目眩が一気に襲ってきたような気になる。 今とは限定せずとも、いかに人間が、地球上の生物が生活習慣病を患っていることだろうか。 ただ、問題はそれを自分のなかに取り込めているか否か、であろう。
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