| 2003年10月07日(火) |
形から逃れようとする形 |
えー、黒飴を舐めています。 お腹にいいそうです。 どういいか? それはわからないです。
『バカの壁』という本が売れているそうです。 ネーミングが最高だと思います。 だから売れているのでしょう。 あと、(本の厚さが)薄いのも理由かな。
面接などで<何でもやります>と言う人は何もやれない、と何かに書いてありました。 これはなるほどと思いました。 やはり、自分なりのビジョンがなければ、その人は社会に割に合う(人によってどれくらいで満足するかに差はあるが、生活に余裕が出来る程度以上の収入があれば、割に合うと言えると定義する。この場合の生活に、趣味的なものにお金を投じ満足することは含まれない。)報酬(賃金)を得られないのかもな、と感じた。
僕の友達のKくんは、道ですれ違った人の足を見て『足が綺麗な人はなんでそうなのかな?』というようなことを言った。 要は見とれていただけのことなのだろうが、足が綺麗なことの理由は様々だろう。 もちろん、綺麗、というのは形のことに関してもだろう。 彼は本当にどうしたら足がその女性ほど綺麗になるのか、なるための手段を知りたいのだろうか? 自分の足も綺麗にしたいのか? それとも、そういう足を見たいのか? ずっと見ていたいのか? 美術館にその足が展示されていたら、そこばかり見ているのだろうか? 週に三回その美術館に足を運ぶのだろうか? それとも、たまに見るのがいいのか? もし彼にパートナーがいたら、彼女の足も綺麗であってほしいのだろうか? きっとそうだろうが、もし自分の理想の足でなければどうするのか? 諦めるのか? 足に関しては諦めるのか? 人は、そうやって自分が気に入らないところがあっても、次々と諦めていかなければいけない。 すべてが理想どうりなんてことはない。 生活形態、家族、仕事、自分の性格、才能、健康に対して、すべてに満足できるだろうか? そんなことを考えるのは暇人だと言われそうだが、この際しょうがない。 たとえば、自分が掲げた目的が追行できなかったとしよう。(それに一定の期限があるものとする) それでも、それができなかったことばかり考えていては人間生きてはいけない。 ということは、同時に(厳密に言えば短期間に)いくつものことを人は考え、実現可能のものはその方向へ導こうとしているのだ。 そしてある決定事項が他のそれに影響する場合、一度決定した事項を検討したり、それが無理なら他のそれを検討する。 それらが影響されない、独立したものである可能性は、考えられる限り少ない。 一つの事項、例えば一つの追行すべき任務は、何かしらの影響を受けるものである。 つまり、一つ一つの事項に、人は決定を下していくのだ。 Kくんは、自分が女性の足を見て綺麗だな、と思ったその感情をどうするのか? たまに垣間見る程度でいいのか。 それともそれを求めるのか。 どれくらい求めるのか。 はたまた自分に求めるのか。 それを決定しなければ、少なくとも無意識にでも意識しなければ、彼という存在にはなり得ない。
―END―
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