「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2016年06月14日(火) 冒険して育つ

先日姉に「◯◯ちゃん(姪)だけでも一人でアメリカへ遊びに来たらいいのに」と言った時のこと。姉が「そうね。その前に英語をもっと話せるようにならないとね」と言ったんです。その時私は(あ、それは違うよ)と思いました。それから自分の数日前までの考え方を思い出しました。

というのは、私はこの春に日本でヨガインストラクターの資格を取得したんですが、アメリカへ戻ってから一度も正式に生徒さんを募集してみたことがなかったんです。当時の私の考えは(もう少し上手になってから生徒さんを募集しよう)でした。そして、そんな自分を疑いませんでした。ところが、この考え方がそう正しくはないことを知る切っ掛けを得たんです。

それは何かというと、ある日、私が登録している、この地域の人が集うグループのウェブサイトで、ハワイからやって来たばかりという女性が、ヨガ生徒さん募集のお知らせを出しているのを見つけたんです。よその土地からやってきてまだ土地勘もないであろうに、その行動力に私の間違いを見つけました。そのうちにとか、もっと上手になったら、とか言っていると私の言う “その時” はやってこないのではないか?! 

がーん!時間を無駄にしてしまった!と思いましたよ。そういえば、作家の五味太郎さんが記事の中で昔「わからないことは動いてみたらわかるのさ」と言っていたのも思い出しました。

今がその時なんだ! そうなんです〜〜〜。今がその時なんですよね。レクチャーさせてもらえる生徒さんを持てることがきっと、インストラクターとしての私の育ちを手伝うんですよ。そんなことに気づいたんですから早速、生徒さん募集を初めました。それに伴ってもっと真摯に練習もしています。

そんな私の、冒頭の姉の言葉への返答は「もしもし〜〜。英語力は、来て冒険することでつくんだと思うよ〜〜」です。
私もヨガレクチャーを通して冒険を始めます。この冒険は私の心の育ちにもつながります。


2016年06月11日(土) なかなか貴重な存在!

昨日、新しい友達が出来て喜んでいます。嬉しいな。ということで今日は友達というタイトルで何か書いてみようかな。

実は私には、幼なじみが居ないんです。高校を卒業した後には故郷を離れましたし、結婚後は転勤族の妻として各地を移動しましたし、離婚後はそれまで住んでいた場所から離れたところへ引っ越したからです。そして今は国外でカレッジへ。出会うのは自分の子ども達と同年くらいの人たちが殆どです。そんな私は、幼稚園の頃からのお付き合い、なんていう言葉を聞くと、そんな関係の人を持ったことがないのでちょっと、そんなに長い時間それぞれの人生を共有する経験をしてみたいなぁとも思います。

しかし、私にも長い歴史を持つ友人達がいます。彼らとはもう10年以上のお付き合いになりますし、心の事を語り合うので<心友>と呼んでいます。ちなみに、心を語り合える<心友関係>の特典は年齢性別住んでいる地域を問わず(今はコンピューターがありますからね)いつでもどこでも本人たちの望む形で時間を過ごせることです。それから、一緒にいるとほんとに楽しくて話題は尽きないんだけど、不思議な事に、お互いに依存しあわないことです。例えば、グループで食事しようかという話になったとしても、「あの子が行かないのなら私も行かない」とか<◯◯ちゃんに一緒に行ってって言われちゃって、ホントは興味ないけど。。。>とかいう小さなジレンマが起きないんです。

 それなら、<友達>はジレンマが多くて疲れるのか?ということですが、そんなことは思いません。知らない世界を知るのは楽しいし、出会う人はみんなそれぞれに私の知らない世界を持っていて聞いていると楽しいし。特に、私にも興味のある自然のことや料理やヨガのことを共感し合える友達と過ごすと、楽しかったなぁ〜〜と思います。だって、自分が確立されていたら何処で誰と話していようと、自分は自分だもんね。

おっと、最後に。。。。

もし今の私達が、今の友達と離れるなんて考えられないと思っているとしたら。。。
仮にその友達たちをなくしたとしても、私達は常に動いているから、新しい友達は又現れてくるんですよね。そしてその友達たちが自分にとっての無二の友達だと感じるんですよね。今の私達が今ある友達たちについてそう感じているように。そして、友達が変われば変わるほど、自分の知らない世界を知る可能性が増えるのだから、友達とか心友の存在って面白いですね。

おっと、もうひとつ。

そして、誰かさんの友達や心友である私たち自身も、その誰かさんの好奇心をくすぐり彼らの世界を広げるきっかけ人の一人なんですよね。私達一人ひとり、なかなか貴重な存在ですよ!


2016年06月07日(火) あるある思考

したいなと思ったりしてみようと思っていたことをやめてしまうきっかけの一つには、しようとしている自分を否定する気持ちがあると思いませんか?私がこの事に気づいたのはカレッジのクラスでグルームディスカッションに参加している時でした。日本語でのミィーティングなら臆病になることはないのに、アメリカ人の学生さんの中に彼らの会話の半分くらい聞き取れる能力の私が一人入って、私としては、彼らの英語を聞き取ろうとするだけで精一杯の状況で、例えば<あ、それはこういうことだと思うよ!>ととっさにひらめくことがあっても、たいていは発言をためらって、ためらっている間に会話は次へ移り、こうして私はかなりの確率で発言のチャンスを逃しているんです。
 
もったいないですよね。これも英会話の機会なのに〜〜。(学科の授業料はもちろん払っていますが)クラスで彼らと会話するということは、ネイティブスピーカーと英会話のフリーレッスンを受けているのと同じなんですよね〜〜。黙って話を聞いているなんて、なんてもったいない!と改めて今思っています。笑。

ということで、どうしてついつい黙ってしまうんだろう、と元を探ってみたら、冒頭に書きましたように、喉元まで来た言葉を「うまく伝えられないかもしれないから。。。」という理由でそのまま飲み込んでしまっているんです。あー、やっぱりもったいないですよねぇ〜〜〜。

そしてもっと自分の生活を見てみると、このように、したいと思うことをやめてしまうケースは結構あるんですよね。なぜでしょう?仮に「きっと出来ないから」とか「無理だよ」とか思うんだとしたらその考えはどこからやってくるんでしょうね。

私の場合は過去に失敗した経験や失敗した時の周りの反応で傷ついた自分のトラウマや、もっと遡って子どもの頃に両親や周りの大人に阻止されていたり、それはするものではないと固定観念を植え付けられたりしていることがあります。きっと、多くの人が同じ経験を持っていることでしょう。

中でも、固定観念とトラウマは厄介です。なぜなら、固定観念というのはたいてい私達がうんと小さくて善悪の判断のできない時から耳に入り私達の肌に心に染み付いていて、それはまるで私達そのもののように私達の行動を左右しているからです。または、固定観念の中だけで生きている自分に気づくことさえ出来ないことがあるんです。

二つ目のトラウマとは、別の言い方をすると、過去の心の傷がいつまでも自分の中に残っていて私達の人生を支配されていることですね。例えば、思い出しやすい場面で言えば、トラウマを受けた場所に二度と行くことが出来なかったり友達と会いたくなくなったりすることですが、もっと遡ると小さな子どもの頃に受けたトラウマをそのまま心に閉まっていることでこちらはもっと大変なことです。なぜなら、思い出せないくらいに小さかった自分が受けた心のトラウマによって出来上がった価値観や、特定の物、人、場所に対する不安感や臆病さ(暗くて狭い場所が怖かったり、大きな声の人にビクビクしてしまったり、一人で居ると落ち着かなかったり。逆に、人と居ると気を使って疲れるとか)について、自分はそんな性格だから、と思い込んでしまうからです。本当はそうではないかもしれないのに。

と、いろいろと書き出したのは私の行動をプラスに変えていくためです。せっかく気付けたのだから成長しなくてはもったいないでしょう?しかしどうやって?

最初の方法は、誰でも知っているように<自分を否定しないこと>ですよね。しかしどうやって?言うは易し行うは難し。

そうです。それならこの方法を使っては?

<ない>を使わないようにするんです。<自分を否定しないこと>と書いたので書き換えて<自分を肯定すること>と書いてみます。

簡単すぎてくだらない感じがしますか?小学生に話しているみたいでいやな気持ちになりますか?

そうですねー。書くのは簡単なんですよね。一度や二度やってみると、わりと問題なく出来ますよね。

しかしこれを毎日毎日、自然にそう思えるようになるまで続けることはどうですか?いくらかの時間と集中力と自分への辛抱を要することでしょう? どんなこともそうですが、継続は力なりといいますね。そうすると、これはきっと、ていねいに取り組んで見る価値のあることではないでしょうか? 

特に辛抱するということ。なぜなら、この取り組みの中には、<どんな自分にも、ない、使わない> というルールがあるからです。例えばうっかり友達や子ども達を傷つけてしまった時も、<自分て良い親になれないな> とか <自分って全然成長してない> という言葉を使わずに <良い親になれる機会を得たよ><たまにはミスもするし、これから成長するっていうサインだわ> と軽く思うということを、1分1秒24時間365日ず〜〜〜っと続けていく。これには毎日の練習と間違っても何度でも繰り返ししてみようと思えること、つまり自分への辛抱を要すると思いませんか?

ちなみに、私は13年前にこれを始めました。最初のうちは、辛抱しきれない自分にあきれたりしていましたが今では(当時から)かなりの確率で私の成長を手伝ってくれています。いろんな面で私は三日坊主だしすぐに気移りするし、諦めるのは得意なんですよ(>ω<)

それなのに、この、'あるある思考'(たった今名前が付きました笑)を続けてこれたのはそれなりの効果があったからかしら。それならば、いちどくらい取り組んでみる価値はあるかも?

私の場合、もちろん13年も経った今でもたくさんの間違いがありますよ〜〜。そしてそれは、これから成長するということなんです。




2016年06月03日(金) 流行について

 昨日友人と、カリフォルニアの人と日本に居る人とのファッションの違いの話になりました。ここカリフォルニアでは、人々はたいてい、特に夏は、Tシャツに短パン、サンダルで歩いています。女性でお化粧をしている人もそう多くはいません。じりじり照りつける太陽からの日焼けさえもそんなに気にならない感じです。所変わって日本では、私達は外に出るとき、たいがい、家にいる時よりは整ったファッションで殆どの女性はお化粧をしてかわいいアクセサリーなんか付けていますよね。暑い満員電車で汗をかいたら化粧崩れが気になって困ります。ビーチサンダルで電車に乗る人なんて海へ向かう日でない限り殆どいないと思います。

友人はこの差について、カリフォルニアでの服装で東京の地下鉄に乗ったら、乗客の中には、この人はホームレスの人か相当生活に困っている人なんだろうかとジロジロ眺める人もいるだろうね、と言いました。私も半ば同感です。長い滞在期間を終えて日本へ帰国する人の中には、「あーもうこんな姿(短パンにTシャツ)で歩けなくなるんだ。。。」と冗談交じりにいう人もいました。

ちなみに、その友人の娘さんはアメリカ生まれアメリカ育ちの現在23歳なんですが、この春に、大学の行事で初めて日本に行ったそうなんです。その旅行から一つの謎を持って帰ってきたそうで、ある日お母さんに「マミー、どうして日本の女の子はみんな同じヘアスタイルしてて、バッグとか服とか似たものばかり持って歩いてるの?みんなが同じに見えて困った」と言ったそうです。私としては、苦笑いというか、的を得た質問というか。20年前の私を思うとよくわかるんですが、(多くの大人も)個性を出しづらい、個を生きづらい社会なんですね。本当に、20代の私はただなんとなく生活していて、自分が誰で、どんなふうに生きたいのかなんて、少しも考えられませんでしたから恥ずかしいです。(余談ですが、私の娘達は自分の将来のことなど私の同年代の頃よりもよく考えている様子が伺えて、素敵なことだなと思います。念の為に書いておきますが、そんな彼らと若くて青かった自分を比較して卑下したりはしていませんよ。笑。)


だけど、私達はどうして個性を作れないんでしょうね。もちろん、集団で生きることをトレーニングされた日本人であることは大きな原因だと思いますが、その他の原因を個人のレベルで見てみませんか?

原因はいくつかあると思いますが、その一つには自分の考え方が定まっていないということでしょうか。自分が何を感じているのか何を考えているのかがわからなくて、他の人に合わせてばかりの自分とか、自分で決めるということができなくて人の意見を頼ってばかりの自分とか、それから、自分なりの考えがあるんだけどその考えに裏付けがなくて自信が持てていない時など。自分のことが自分で決められない上に相手によって振り回されてばかりなのだから困ったものですよね。それから、もっと大変なのは、誰かの考えが自分の考えだと思い込んでいる場合ですね。

一番最後のケースは、流行を追いかけてばかりいる場合に多いと思います。コマーシャルから流れてくるタレントや女優男優さんの言葉をあたかも自分がそのように感じているかのように感じるんです。または、お店に並んでいる服を自分の好みだと思うんです。実際にはその服は、期間限定の流行として並べられてあるだけなのにね。ということは、毎年好みが変わる自分って何なんだろう?と疑問に思うことが流行りに惑わされず、私たち自身の個性を取り戻す始まりだと言えますか?

化粧するかしないか、という点においては私は、笑顔は心から、という言葉をひたすら信頼しているんです。それから、人工的に作られたパウダーやクリームでお肌を覆ってしまったらお肌が呼吸できなくて苦しそうだとも思うんです。皮膚の働きの一つには、”呼吸する”という機能が含まれているのでまんざら嘘ではないでしょう?

「でも、人と違うことしていると目立って恥ずかしい」なんて思いますか? 

本当に?どうだろう?

実は、私は折にふれて娘に(機会があれば息子にも)伝える言葉があるんです。それは、「みんなが同じようにしなくちゃいけないと思っている世の中で、あなたが自分の感じていることを大切にして自由に生きていたら、普段、人と合わせるって大変だなとかもっと自分のいいようにしたいのに思っているのにできないでいるあなたの友人や周りの人は、あなたっていいな、彼女(彼)のようになりたいなって感じると思うよ」という言葉です。

自分を基準にして生きている人は輝くんです。そしてそれが私達の笑顔になる。なぜなら、その時彼らは自分を生きていて心から楽しんでいるからです。ね、恥ずかしくないでしょう?


2016年06月02日(木) 自分の波に乗る

最近度々、社会の波に乗る、ということについて考えています。きっと日本でもアメリカでも又他のどの国でも、多くの人が、一人前になるということについて、仕事を見つけて収入が得られるようになる、という解釈をしていると思います。それは確かに正しいのだけど、この、多くの人の頭を支配している、一般的な«ゴール»は一体どこから来ているんでしょうか。なぜ私達はそう思うの?

一番の影響はきっと育った環境でしょう。私も過去には、自分の子ども達に身勝手な大人の価値観を押し付けてきた本人だったので、よくわかります。親は時に、気づかないうちに、わが子にとって最も危険な大人になれるんです。(でも、親も子も気づいたところから変わっていけるので心配しないで下さい)

それから?

子どもが大人になる過程で多くの時間を過ごす学校で? 学校の先生達にも同じことが言えると思います。

それにしても、どうして殆どの大人が同じような価値観を持っているのでしょうね。それは、彼らも又子ども時代に彼らの親にそのように育てられてきたからですね。つまり、これまで大人社会はずっと、殆どの場合、社会の波に乗るようになるというテーマで子ども達の成長を手伝おうとしてきたのだと思います。

私は、この現象は恐ろしいことだと思っています。なぜなら、もしどこかで子ども達が、または大人も、波に乗れなくなった時に辛い思いをするからです。そして、この現象の最も恐ろしい所は、辛いとわかっていてもそこに留まろうと頑張ってしまったり、又は、抜け出したくてもどうしていいのかわからなかったりして、結局その場に留まるしかないという状況に自分を持っていってしまいがちだからです。そんな状況が続けばある日アルコールや薬に手が伸びてしまったり、病院に行きたくなって、薬に依存して生きることになってしまうこともあるでしょう。たった一度しかない人生が、社会の波に乗れないというだけでマイナスに落ちていくんです。

それならば、そんなふうにならないようにするにはどうしたらいいか。答えは、社会の波に乗らない自分を育てることなんです。言い換えると、«自分を生きる»ということです。他者や社会の価値観を基準にしないで貴方だけが感じることの出来る自分の感覚をひたすら信頼して歩いていきましょうよ。そうすれば、自分の波に乗って生きる自分が育つと思います。


2016年06月01日(水) 柔らかさ その2

 前回のテーマは柔らかさについてで、自分達はどのようにリラックスしているかを観察するために、まっすぐにたった状態から上半身だけを前に倒してリラックスさせるというポーズを取ってみました。今日はその観察の結果について書きます。
床の上に真っ直ぐに立ち、上体を倒して上半身をだらりとさせ、両腕もだらりとさせて手で反対側の肘を抱えます。頭もリラックスさせて。

両手はどうなっているでしょうか?

芯からのリラックスを感じる体勢は人それぞれで違うと思うので、良いポーズとか悪いポーズとかはないんですが,
私の場合、上半身をリラックスさせると同時に両手が肘から離れて床を落ちるんです。手で肘を掴んでいることが出来ない状態になります。けれど、時には、肩も両腕もリラックスさせているのに掴んでいる肘を維持させようとして、手に力が入っていることがあるんです。この形では、私の場合、心からのリラックス状態ではないんです。

みなさんはどうでしたか?身体観察は楽しかったですか?

私は、このような観察は面白いしプラスに繋がることだと思っています。なぜなら、このように身体に細かい部分に意識を向ける練習をすることは自分の心の僅かな変化に気づく練習にもつながるからです。又は反対の言い方もできますね。自分の心の変化に気付けないくらいに忙しい時、私達はその体の変化にも気づくことが出来ないかもしれません。まさに、忙しいという字が、心をなくした上体である、というように。。。。ですね〜。


2016年05月31日(火) 柔らかさ その1

 今日は6月1日だと思って一日過ごし、夕方に、友達と待ち合わせ場所に行こうとして一日早いことに気付きました。一日中日にちを間違えて過ごしていたのに何も問題が起きなかったなんてラッキーですね!笑。そんな私、今日は Softnessについて書きます。Softness。日本語では柔らかさです。

突然ですが、私たちは普段の自分がどのように身体に力を入れて過ごしているか考えたりしないと思いませんか?しかし、少し意識してみると、いつも身体のどこかに無駄な力が入っていたりして、逆に、力を抜いて動くことの難しさを感じることがあります。例えば、肩の力を抜いてというと、肩の力を抜くために違う場所に力が入ってしまったり。私達の身体は、頑張って頑張って重力に引っ張られないようにとでもしているつもりなのでしょうか。でもきっと、力を抜こうと思えば抜くことが出来ると思いませんか?少しここで試してみたいです。

マットか床の上に両足全体に体重がかかるようにして立ちます。息を吐きながら上半身を前屈させて状態が下るところまで下げていきます。両腕はダランとして両手で反対側の両肘を抱えます。することはこれだけです。これはヨガでいう上半身のリラックスポーズなんです。

では次に、肩の力を抜いて、首の力も抜きましょう。

どんな体勢になりましたか? 今、手はどこにありますか? 少し時間をかけて自分を観察すると面白いですが、観察している間に体も少しずつ緩んできているような気がしませんか?


そうだ。この続きは明日書くことにします。私ももう一度自分の体で確認したいからです。

ということで尻切れトンボになりましたが、柔らかさの研究ができて良いのではないかなぁ〜〜と自己満足のまま終わりにします。


2016年05月29日(日) おとなの自分

 ここ2週間ばかりずっと、しようしようと思っていたことが今日やっと出来て喜んでいます。それは手作りヘアーコンディショナーを作ることです。やっと完成して嬉しかった。もともと、<できたら良いなやってみたいな>は他にもたくさんありますが、特に自分の体や心のケアに関することが実現できるときは心からの満足を覚えます。実は本当は再優先したほうが良かったんだろうな、と今思っています。だって、これは私の健康に関わることなのだから。心と体の健康は他の何よりも大切なことでしょう?

しかし、私達には本当に必要なことを先送りに出来る理由がたくさんあるんですよね。

勉強しなくちゃ、友達と遊ぶから、ちょっとテレビ観てから、ゲームにハマってて、ラインで話してたらあっという間に時間が、などなど。私達の周りには、一番大切なことを忘れてしまえる環境が整っているんです。つまり、その誘惑から自分を引き離してあげられる自分でいる必要があるんですね。
 
それではどうしたらいいのでしょう?

心と体を一番大切に出来る自分でいるためには、そのように動いてみて感じた達成感や心の満足を自分の中にキープすることでしょうか?もし共感していただけたら嬉しいですが、自分を心から大切にしていると感じられた時の満足感は、ゲームで得点を伸ばした時やテレビで笑い転げた時や友達と美味しいものを食べに行った時の満足感とは違うレベルだと思うんです。ちなみに私はそれを安堵感と呼びますが、私達は他の動物と同じように自分で自分を守ろうとする知恵/本能(?)を持って生まれているはずなので、その知恵を使えた時の歓びは、きっと本能を使って生き延びることが出来る自分への動物的な安堵感ではないでしょうか?

このように捉えると、自分で自分を守れるというのは偉大な能力だと思えませんか?

私達は時に他者の手助けが必要な状況がありますが、自分に安堵感を与えてあげられるのは実は自分自身でしょう。その、自分で自分を守ってあげられる自分を、<おとなの自分>と呼べませんか?


2016年05月28日(土) 本当の自立

若い人々、特に大学生や高校生の関心の一つに、自立するために将来どのような仕事に付きたいか?ということがあると思います。そう。自立ですよね。親は自分の子どもが、教師は自分の受け持った生徒さん達が、それぞれ自立した人生を送れるように願うと思います。ちなみに自立とは、多くの人々が知っているように、自分の足で立って生きることなんですよね。しかし、自分の足で立つということは本当はどういうことなんでしょうか?

私は一般の大人の思う自立の条件には大きく分けて3つの段階があると思います。まず、子どもを取り巻く周囲の大人が最初に目標とする自立、 ”集団生活に馴染めるか?” という部分です。それは、子どもが集団生活に入るようになった年代つまり、保育園や幼稚園の頃から始まるんです。その後、”学問の面で周囲と同じように勉強できるかどうか”が自立の項目に加えられ、殆どの子ども達は集団生活と勉学が整った中で幼少期を過ごすんです。そして、最後の自立は経済の安定。”良い就職先と経済的な安定をもたらす良い就職先につけるかどうか”です。どれも皆、人間が生きていくために必要なことですね。

しかし、よく考えてみるとその三つが自然に出来上がっていく為に最も大切なことがありません。それは<心の自立>です。

集団生活に馴染むように、みんなと同じくらいかそれ以上に勉強ができるように、そして、ちゃんとした会社に就職できるようになることを目標としている場合には心の自立はなかなか叶わないんです。その理由は、自分の足で立って、つまり自分の心で生きていけるようになるためには、どんな自分も肯定される社会に生きる必要があるからです。みんなと同じでない自分に居心地の悪さを感じる環境では、勉強が追いつかないと悲しい気持ちにならざるを得ない環境では、みんなと同じになって肯定されようとすることで精一杯になってしまうのです。

 そこで提案したいのは、心の自立をまず先に、ということです。やってみようと思ったら、方法はシンプル。今までの方法を少し変えてみるだけです。まず、「集団生活に馴染もうとしなくても良いし、皆と同じでなくても良い」という感覚を感じ始めるところから。いかがですか?


2016年05月27日(金) 声のトレーニング

 私達には聞いて心地よい音のトーンがあると思います。そして最近気づいたのですが、私にとって最も心地よいトーンは自分の声のようなんです。こんなことを書いておかしいですね。でも、本当なんです。と言っても、私はいつも同じトーンで発声しているのではありません。面白いことがあって笑っている時は口も喉元も大きく緩んで少し高めのトーンで、悲しい時やストレスがかかっている時は、声を出す時に使う筋肉が緊張しているので、声の中に空気の泡が混じっているような声が出ます。声が透き通っていないんです。怒りを感じたまま語っている時は、お腹の筋肉を使って強く発声しています。怒りを貯めたまま生きていくのは辛いですから、怒りの正当な出し方を知らないまま、発声するという行為を使って感情を発散しているのだと思います。感じていることを正しく伝える方法を忘れた時の私の、大人げない行動です。。。m(ーー)m

 話は戻って、自分に心地よい声のトーンについて。私が自分の声を自分の理想に近づける練習をしたのは20代の初めでした。きっかけは、お友達の歌声を聞いて(綺麗な声だなぁ〜。私もあんなふうに声を出せたら良いなぁ)と思ったことです。単純ですね。ですから、その練習も単純なものなんですよ。笑。

一人で部屋にいる時や自然の中に出かけた時、自分で発声して録音して聴いてみるんです。いろんな声を出してみて何度も録音して繰り返し聴いているとある時、自分が聞いて心地よいトーンがわかってくるんです。そうしたら、その声をいつも出せるように毎日練習するんです。

 練習/トレーニングというと長続きするかなと心配になってきますか?しかし、この練習には時間も場所も問いません。必要なのは誰かと語り合うことと語っている自分の声に耳を傾けることです。私達の殆どは毎日自分以外の誰かと関わりを持って生きているので必要な環境はすぐそこに。

 しかし、もしも私達が一人暮らしをしているのなら、かっこうのお友達がいつもすぐそこにいますね。自分と語り合えるんです。この場合は、声の練習をするのに最も都合がいいですね。なぜなら、相手の都合はいつも自分と同じだからです。(少し話してみよう)と思った途端に会話が始まっていて、(あー疲れちゃったな。もうやめとこう)と思った瞬間に相手もやめてくれるのです。確認も何も要りませんから仲の良い友達と話をするよりもさらに簡単です。楽でしょう?笑。そうしているうちに、自分に心地よい声のトーンが私たち自身の声そのものに成長するんです。お暇があったら試してみてください。

 余談になりますが、20歳の経験のその後、ある日家族でカラオケに行った時、私の声のトーンは姉や母のトーンと違っていることに気付きました。彼女達二人の声は似ていた(似ている)んですが、私の声はどこか違うところからやってきたような声だったんです。家族もその違いに気づいて一時期話題の一つになり、調和や同一色が求められる社会で育ってきた私は当初、家族の中で自分だけが浮いているような感覚を持ちました。しかし、家族の中にも違いがあって当然なのですからね。まもなく、私は私でいいのだというところへ落ち着いたんです。違いは個性です。


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