読書日記

2002年03月31日(日) 分裂読書症候群の一日

分裂読書症候群の一日
こうなってしまった理由はないこともないにしても、最近は本当に一冊の本を読み通す気力がない。つまみ食いばかりでは実にはならないし、身にもつかない。
たまに時間に余裕があると今日のようなことになる。
城山三郎という人の随筆の方に興味が湧いたので、わりと新しいと思われる「この日、この空、この私(無所属の時間で生きる)」(朝日新聞社1999.10.5)と今までの随筆の総集編のような「嵐の中の生きがい」(角川春樹事務所ランティエ叢書2001.5.18)を読んでみることにした。何か心の安定の糧を求めるような読書になっていて少しさもしい読み方かもしれない。
前者から「お叱りの手紙」「日帰りの悔い」「子猫とナポレオン」「慶弔積立金なんて」の四篇をさっと読んだ。
次に戸梶圭太という売り出し中の小説家の「牛乳アンタッチャブル」(双葉社2002.2.15)に移り、例によって最初の方だけ読んでみた。
牛乳にあたったらしい老人の苦悶から話は始まり次に牛乳会社のサービスセンターに問い合わせや文句の電話が殺到してんやわんやになる場面に続いていく。
牛乳会社の名前が雲印乳業というあくどさでもし雪印乳業が通常の状態であったらクレームまちがいなしである。
そして久々の富樫倫太郎で、新作「MUSASHI!(巻之壱 蜘蛛塚)」(光文社カッパノベルス2002.1.25)をほんの少し。宮本武蔵が13歳の弁之助という名の少年だった時の物語の開始である。テンポがよくて押さえるべきところは押さえている面白さの壺を心得た作家の作品は今回も面白そうだ。
そしていまのところ今日の最後となる松永真理のエッセイ集「なぜ仕事するの?」(角川文庫2001.2.25)は話題の人の生き方や考え方を知りたくなって読もうと思った本である。
そういうわで腰のすわらない読書がまだまだ続いて積ん読本をいっぱい残してこの世を去ることになるのだろうか。
反省の言葉も出ない。



2002年03月30日(土) 「本の雑誌」4月号(本の雑誌社)を読む。

「本の雑誌」4月号(本の雑誌社)を読む。
何度も読む雑誌はこの雑誌だけである。軽く全体を拾い読みした後、興味、関心の高いものから読み直していく。日を置いて読み残しがないか確認する。その時の気分によって新たに面白いと感じるものが出てくることもあるので、また全体を一回流してみる。
こうやって何度も何度も読み直す。
今月号は三月二十九日に届いた。書店に頼んでいるのだが、毎月二週間遅れである。書籍扱いなので遅くなるという。最近は諦めの境地である。
今月号は「カニ玉そでまくり号」で、特に充実している。
本について書くことが好きでたまらない人たちが今回は特に力を入れて書いていると感じた。



2002年03月29日(金) 城山三郎「ちょっと散歩してくるよ」(講談社「本」4月号所収)を読む。

城山三郎「ちょっと散歩してくるよ」(講談社「本」4月号所収)を読む。
連載エッセイ「この命、何をあくせく」の33回目。
最近、耳慣れぬ言葉や耳障りのよくない言葉によく出会うという話から始まったので、今回はそういう言葉の話題なのかと思ったら、自身がアイルランドにはまっているという話題にきれいに変わったのはさすがだった。
ジョイスの「ダブリン市民」(新潮文庫)を読み返したのがきっかけで、その次にブレンダ・マドクスの「ノーラ ジェイムズ・ジョイスの妻となった女」(集英社文庫)へ深入りし、さらにコルム・トビーンの「ヒース燃ゆ」(松籟社)へと進んでしまってすっかりアイルランドにはまる状態になったのだそうだ。
現在はかつてよりも人々の生活は少し落ち着いてきているが、大自然の酷薄さだけは変わっていない。そこでこのエッセイの題名の意味が伝えられる。
「天気のいいうちに」ちょっと散歩してくるよというわけなのである。
自然の有りようが日本と全く異なる世界の話をしているのだ。
いままでこの著者の本を読みたいと思ったことはなかった。
毎月、こんな見事なエッセイを読むことになると、どんな作家だったか知りたくなってくる。今まではジャンルが違うと目を向けなかった。
目が向いている方向や興味関心の対象が意外にも一致する事があるので、他の本も読んでみたくなった。



2002年03月28日(木) レナード・トンプスン(訳=田中潤司)「スクイーズ・プレイ」を読んだ。

レナード・トンプスン(訳=田中潤司)「スクイーズ・プレイ」(「北村薫の本格ミステリ・ライブラリ」角川文庫2001.8.25所収)を読んだ。
アル中になってかつての名声は地に落ちている酔どれ弁護士グレイのもとに殺人容疑の夫を助けてほしいという女性が現れる。依頼を受けたグレイはかつてのように獅子奮迅の働きをする。密室物だが結末は思いがけない。
昭和31年の雑誌「宝石」に訳載された作品の発掘である。
古き良き時代の佳品である。読んでいてなぜかうきうきするような遊び心を感じる愉快な作品とでも言うべきか。
「スクイーズ・プレイ」とは何かで随分悩んだ。野球の「スクイズ」と同じような意味かもしれない。



2002年03月27日(水) 上原隆「友がみな我よりえらく見える日は」(幻冬舎アウトロー文庫2000.12.25)の「友よ」を読む。

上原隆「友がみな我よりえらく見える日は」(幻冬舎アウトロー文庫2000.12.25)の「友よ」を読む。
もともと1969年に学陽書房から出版された本がいわゆる親本でその文庫化である。題名に引かれるものがあり、なおかつ解説が村上龍だったので買うことにした。
著者についてはまったく予備知識がない。冒頭の「友よ」を読み、著者紹介欄の1949年生まれを見て、納得した。
「友人が本物の不幸におちいった時、私は友人になにもしてあげられないことに驚き、とまどった。」
これは冒頭の文章。
そして、アパートの5階から落ちて、生命は助かったが両目を失った友人との話が語られる。
以下、スピルバーグの『E.T.』、河島英五の「時代おくれ」、ビートルズの「ミッシエル」、石川セリの「八月の濡れた砂」、ビートルズの「ヘルプ」、ランボーの詩などで彩りながら、生きる希望を取り戻していく友人のことと傍観するしかない自分の気持ちを語る。
困難に陥った人を救うことができない者ができることは見守ることだけか。
全十四編の軽エッセイ風ノンフィクション。
ちょっと気になる人を発見した感じ。



2002年03月26日(火) 石崎幸二「長く短い呪文」(講談社ノベルス2001.9.5)を24ページまで。

石崎幸二「長く短い呪文」(講談社ノベルス2001.9.5)を24ページまで。
シリーズの第3作であることを知らずに買った本。裏を見れば「周到な伏線が破天荒な推理へスパークする好調シリーズ、早くも第3弾!」と説明しているではないか。
それにも関わらず少し読んでみた。
主人公らしい青年は工業関係の会社の社員で、名前は著者と同じ。その彼と私立の女子高生とのメールによる趣味的な軽い会話のやりとりのプロローグに続き、その女子校のミステリ研究会の部室での面と向かってのこれもまた軽薄な会話によって物語が展開していく。
最近歳のせいか女子校生が登場すると興ざめしてしまって読む気がしなくなる。
決して面白くないわけではないのだが。



2002年03月25日(月) 出口汪「カリスマ受験講師の論理的に考える、私の方法」(三笠書房知的生き方文庫2001.11.10)を斜め読みする。

出口汪「カリスマ受験講師の論理的に考える、私の方法」(三笠書房知的生き方文庫2001.11.10)を斜め読みする。
副題は、「自分の頭」がもっと賢く使える!
予備校の現代文講義で名高い著者が著した内容はまさしく題名通りの本である。
前半は「論理的に考える」ことの意義・重要性をひたすら説き、なかなか具体的な指南にならないのでじれったかった。中程からやっと実践の文字が現れ、ほっとしたくらいである。
結局は、現代文読解の参考書のようだった。現代文の受験問題を考えることが「論理的に考える」訓練になる。最強の論理トレーニングになると主張している。
最後の自分だけのストックノートを作り、活用すると、有機的な認識力が鍛えられていくという意見も何かしら受験勉強の延長のようである。
熟読し実践すれば身につくとは思うが、期待していたものとは相当違った。
では何を期待していたのかと聞かれても返答に困ることは困る。
それは、受験勉強と関わりのない、または受験テクニックとも関係のない、抱腹絶倒で信じられないほど新鮮な実践例の指南書である。



2002年03月24日(日) ケイ・フーパー(訳=幹遥子)「シャドウ・ファイル/覗く」(ハヤカワ文庫)を52ページまで。

ケイ・フーパー(訳=幹遥子)「シャドウ・ファイル/覗く」(ハヤカワ文庫)を52ページまで。
人の心や思念を読むことができる超能力を持つ女性が犯罪捜査に協力する物語。ここまででは予想外の展開はない。超能力といっても万能ではないのでその思念が誰のものなのかがすぐに分かるわけではないし、条件が揃わないと心を読むことはできない。
今後、捜査が難航しつつ思いがけないサスペンスが生じてくるはずだ。
3部作の第1作目で、世情の評判は結構良い。

またしてもなかなか落ち着いて本を読めない環境になった。
この日記にも時間をかけられない日がしばらく続きそうだ。



2002年03月23日(土) スティーヴン・ハンター(訳=玉木亨)「魔弾」(新潮文庫2000.10.1)を35ページまで。

スティーヴン・ハンター(訳=玉木亨)「魔弾」(新潮文庫2000.10.1)を35ページまで。
言葉にある程度敏感な一人の男が語り手に寄り添って物語を進行する手伝いとなっている。そこはドイツ軍のユダヤ収容所の中でも特別なところらしく随分と囚人に寛容だった。小説家志望だったシュムエルにはそれを謎と感じる常識があった。
ある日、靴屋の親方(マイスタァシュースタァ)が来たと彼は耳にする。しかし、その軍人はとても靴屋には見えなかった。
夜に悪いことがきっと起きるとシュムエルが思い始めたある夜囚人たちは広い場所に連れ出される。薬莢をみんなで拾うためである。拾っている最中に眠って倒れる者が出始めたと思った直後に気がつく。そこは射撃場だと。囚人は狙撃されて次々に殺されていった。一人残ったシュムエルはやっと思い違いに気づく。あの言葉はマイスタァシュースタァではなくマイスタァシュッツェつまりマスター・スナイパー(狙撃の名手)だったのだ。
プロローグとして申し分のない語り口である。
1980年発表、著者の処女作である。「極大射程」の成功を受けての新潮文庫版刊行となる。
昨日の思い違い。
小林信彦の新刊は来月の14日発売であった。
また「妖怪」とかみそり半蔵の対決するコミックは「御用牙」であることを思い出した。



2002年03月22日(金) 小林信彦「物情騒然!」(文藝春秋)がやっと出る。

小林信彦「物情騒然!」(文藝春秋)がやっと出る。
今日、「本の話」4月号届き、小林信彦の新刊エッセイ集の情報あり。14日発売。すでに書店にありや。また、文春文庫新刊にも「人生は五十一から」が入ったとのこと。
久々の登場で非常にうれしい。
近所の書店ではなかなか買えないのが気が懸かりだ。

トム・クランシー、スティーヴ・ピチェニック「ネット・フォース」をほんちょっと読んでみた。すぐにネット・フォースの司令官が謀殺されるというめまぐるしい展開にちょっと驚く。時刻が遅くなっても彼の顔を見たがる妻と犬のもとへ行く途中を襲われ、相手の一人を返り討ちにした直後に殺されてしまうのだ。せっかく「犬」が出てくるとこちらも喜んだ矢先のことだった。



2002年03月21日(木) 丸谷才一「女ざかり」(文春文庫1996.4.10)をほんの少し。

丸谷才一「女ざかり」(文春文庫1996.4.10)をほんの少し。
この著者の長年のファンのはずが、小説類は意外に読んでいないの気がつく。軽めのエッセイもそれほどでもない。「梨のつぶて」に始まる一連の書評集が大好きだったのである。多少背伸びして高尚な評論を読んだ気にさせてくれるのが良かった。まだ、それほど多くの人に知られているようでもないのも魅力だった。本を選ぶ時や読む時の基点だった。小説については長編は一つも最後まで読み通しているものはないし、中・短篇もいくつか読んだにすぎない。
長編は冒頭に触れ、うまい書き出しだと感服するのが常だから、最後まで読み続けてもよさそうなものなのに、そうならない。うますぎるのが原因で、そこに何かあるのである。中・短篇の場合はもっと顕著で文章がすばらしすぎるところに理由がありそうだ。感心するのみ。
悪い印象は全くない。見事という印象が残っている。
この「女ざかり」も40ページまでしか読んでいないが十分に面白い軽い読み物風のものになっている。著者の蘊蓄と主人公の一人である記事の書けない論説委員浦野重三のおかしさ。
大新聞社の論説委員の一人である女性が主人公という設定も興味津々。



2002年03月20日(水) 平岩弓枝「妖怪」(文春文庫)を少し。

平岩弓枝「妖怪」(文春文庫)を少し。
昔、かみそり半蔵という与力を主人公にした漫画を読んでいた影響からか、その半蔵の巨大な敵として物凄い形相で描かれていた「妖怪」南町奉行の鳥居甲斐守は強烈に印象に残り、気になる人物だった。とても実在の人物とは思えないほど「妖怪」的だったが。
その「妖怪」が主人公なので、興味津々で手にとった本である。著者については正直あまり関心はなかった。しかし、ちょっと読んで、失礼な言い方ながら手練れの作家であることがわかる。
冒頭の水野忠邦の屋敷前に群衆が押し寄せているところに甲斐守が登場する動の場面も、次の甲斐守が一人沈思する場面も、熟練の文章で見事である。
時代活劇小説でないのは明らかで、「妖怪」の人間像に迫る渋い小説のようである。
少し前に佐伯氏が「妖怪狩り」と題する新作を出しているので近いうちに読むつもりでいたが、その前に読んでしまいたいものだ。



2002年03月19日(火) 夕刊フジ特別取材班『こんな人が「解雇」になる−リストラされた78人の教訓』(角川書店2001.2.10)を少し読む。

夕刊フジ特別取材班『こんな人が「解雇」になる−リストラされた78人の教訓』(角川書店2001.2.10)を少し読む。
進んで読みたいテーマの本ではない。読んでおかないといけないかな、とか人ごとではないなとか思いながら手にとった。
夕刊フジの600回に迫る長期連載「同時進行ルポ 大リストラ時代を生きる」から78人分を選び出し世代別に構成し直して作った本である。
読んだのは、20代から30代前半までの生の声を集めた「不安と心の痛手が襲いかかる」の章の10人分。
「結婚式の翌日に会社が倒産」「体をこわしても辞めるに辞められず」一昔前ならこんな話を聞いたら怒り心頭に発したことだろうが、今はこういう恐ろしい事態も常識化して当たり前のことになっている。
前任者とイメージの異なる首相にその都度「世直し」を期待して裏切られ続けて何十年という国民性にはやはりどんなひどいことでもすぐに慣れてしまう傾向が含まれている。
こういう本を読んで怒りを口にしながらも同時に自分はまだましと思い込まされるいう具合にひそかに教育されているのかもしれない。



2002年03月18日(月) 岡本賢一「ワイルド・レイン2 増殖」(ハルキ文庫2000.10.18)「ワイルド・レイン3 覚醒」(ハルキ文庫2000.11.18)を続けて読む。

岡本賢一「ワイルド・レイン2 増殖」(ハルキ文庫2000.10.18)「ワイルド・レイン3 覚醒」(ハルキ文庫2000.11.18)を続けて読む。
2では前回の敵以上の強い力を少女がまず登場し、レインを苦境に追い込む。その少女との戦いをクリアした後にさらに強大なパラ能力を持つ敵が誕生し、と小説版『ドラゴン・ボール』化していく。超人同士のすさまじい闘争がはてなく続く印象を受ける。日本の忍術合戦のような趣もあり面白い。
3では場面が一転する。謎がまずあり、次にもっと大きく根源的な謎が示され、最後のこれも驚くべき壮大な結末へと向かっていく。
あらすじを書くと、(日記だから書いてもかまわないはずだが)(しかし、内容を忘れた未来の自分の楽しみを奪う可能性はあるわけで)これから読む人の「感動」を妨げることになるので、あの安原顯さんのようにはできない。もう何も書けない面白さである。
ヨコタカツミ氏の表紙絵は雰囲気があっていいものだが、物語の終わり方はそういう雰囲気ではない、とだけ書いておこう。
『ワイルド・レイン』全3冊は、いまさら言うのも遅いとわかっている上で言うと、私の2000年度日本SFベストである。今頃読んだ自分を悔やんでいる。

*宮部みゆきの「ドリーム・バスター」を時折り思い出したが、何か理由があるのだろうか。



2002年03月17日(日) 岡本賢一「ワイルド・レイン1 触発」(ハルキ文庫2000.9.18)を読んだ。

岡本賢一「ワイルド・レイン1 触発」(ハルキ文庫2000.9.18)を読んだ。
朝日ソノラマの文庫で何冊か読んでいたので、主人公のレインはワイルドな筋肉マンでスペースオペラのような宇宙を駆けめぐるSFアクション小説だとずっと思っていた。表紙のヨコタカツミという人の絵を見てもこれが主人公の姿とは思っていなかった。敵方の肖像だろうと思っていた。
ところが、読み始めてレインという人物の描写があり、表紙絵と見比べると、思い違いに気がついた。一応これはレインなのだと気がついた。
それにしても、裏表紙にある「スペース・アドベンチャー」は誤解を生む。全然「スペース」じゃない。全然「アドベチャー」じゃないじゃない。確かにそういう場面はあるにはあるが、全編を覆い尽くすほどのものじゃない。(というほどでもないじゃないが)
人智を超える神のようなパワーをめぐる超能力対超能力の戦いの物語だった。
全約270ページはちょうどよい、いわば節度ある長さで、面白さとほどよく調和している。
26世紀の未来。人類最高のパラ能力者レインは最愛の女性を失った「過去の事件」から逃れられず鬱々とした日々を送っていたが、現実は彼を自由にして置かなかった。超強力なパワーを手に入れるために邪悪な意志がレインに関わりのある家族を誘拐したのだ。急速にレインは己の意志とは別に全ての事件の渦中に引き寄せられることになった。
久々に迫力あるエスパー物を読んで満足した。
単純で読みごたえのある佳作である。



2002年03月16日(土) 丸谷才一「だらだら坂」(文藝春秋「日本の短篇 下」1989.3.25所収)を読む。

 丸谷才一「だらだら坂」(文藝春秋「日本の短篇 下」1989.3.25所収)を読む。
もともとは短編集「横しぐれ」中の一篇。酒の席で壮年の男性が若い同僚に向かって喧嘩の極意らしきものを口にした後、若き日の回想を一人語りを始めるのが冒頭である。
一年浪人して大学に入学できた若者が手頃な空き室を探しにだらだら坂を超えて周旋屋野前で部屋を物色しているといつのまにか二人の男に挟まれているのに気づく。
二人は金を巻き上げようとしているらしい。
隙を見て逃亡できた彼がだらだら坂を下って街中に戻ると彼のあせりや不安、恐怖が嘘のように見える光景があった。
気がつくと彼は新宿の遊廓を歩いていた。
思いがけない成り行きで真面目な道を踏み外した若者が主人公であるが、それにしても一人称の語りの調子が見事で、内容よりもこの語り、文章が主人公といえるのではないか。十五、六ページ程度の短さの中で戦後すぐ当たりの雰囲気をよく練り上げている。



2002年03月15日(金) 竹下節子「不思議の国サウジアラビア(パラドクス・パラダイス)」(文春新書2001.7.30)を36ページまで読んでみた。

 竹下節子「不思議の国サウジアラビア(パラドクス・パラダイス)」(文春新書2001.7.30)を36ページまで読んでみた。
かつてないほど大量の新書が毎月どこからか吐き出されるように出版されている。否定的な側面があると同時に肯定的に考えられる側面もある。
とりあえずは未知の著者との邂逅である。
何であれ普段頼りにしているのは既知の情報である。安定した生活にこれは欠かせない。時に安定を打ち破りたくなる。
小説類だと情報が多すぎる。売れそうな本についても同様だ。文庫本もかつての評判作だった。
新たな探検の裾野は新書から始まっている。目をつぶって最初に触れた物を買って読み始める。聞いたことのない著者が一番良い。
未知の著者とその著書との思いがけない出会いが既知の自分を打ち破る契機となることがあるから。
この著者は一人の立派なチャレンジャーである。
冒頭はこう始まる

「サウジアラビアには行ったこともないし、知り合いもいないよ」
 突如としてサウジアラビアに行ってみたくなったのは兄のこんな言葉を聞いてからだ。(5ページ)
この兄とはイスラム思想の研究者で日本では第一人者らしい。その兄の言葉によって、普通なら逆の反応になるはずのところをその妹たる著者はサウジアラビア行きを楽しみにしかつ決意するのである。
この著者自身がまずパラドキシカルな人間のようで面白い。
そんな著者のサウジアラビア紀行文集である。
日本人の常識から桁外れに遠い国サウジアラビアの不思議さ、面白さ、意外さ、平凡さなどを具体的に語り、返す刀で日本を切る豪快な本である。



2002年03月14日(木) 川上健一「ららのいた夏」(集英社文庫2002.1.25)を一気に128ページまで。

 川上健一「ららのいた夏」(集英社文庫2002.1.25)を一気に128ページまで。
十年ぶりの新作「翼はいつまでも」で注目を集めた著者の1989年の作品。
走るのが好きな天然の天才ランナーとでも呼ぶべき少女の名前がららと言ってもちろん主人公である。高校の校内マラソンで驚異的な走りを見せたかと思うと一般のロードレースに出場して日本を代表するランナー以上の記録的な走りを見せる。
突然天から舞い降りてきた天使のような少女である。
そのららと同じ高校の野球部のエースピッチャー純也との純な恋もららの活躍と並行して描かれる。
現代にはあの「Go」という若者小説の傑作が現れた。あれは男の子が主人公の爽快な話だった。こちらは女の子が主人公の豪放磊落なもっと開放的な笑いに満ちた話である。
読み物という呼称がもっともふさわしい青春読み物だ。2002年度の文庫本第1位はこれに決まり、である。
とはいっても、まだ3分の1しかよんでいないので感想も半分以上当てずっぽうみたいなものではある。



2002年03月13日(水) ジェラルド・カーシュ(訳=西崎憲)「豚の島の女王」(筑摩書房「英国短篇小説の愉しみ1「看板描きと水晶の魚」所収)を読んだ。

ジェラルド・カーシュ(訳=西崎憲)「豚の島の女王」(筑摩書房「英国短篇小説の愉しみ1「看板描きと水晶の魚」所収)を読んだ。
なんとも切ない物語でこういう話は苦手である。
難破、孤島、サーカス、巨人ガルガンチュア、双子の小人、手足のない美女。
孤島に流れ着いた四人がどんな風に行き、そして滅んだかの短い歴史物語である。余分なものが何一つない簡潔さゆえに記憶に残る。渋い。
この作者の名前は見たことがある。「奇想天外」や「幻想と怪奇」といった大昔の雑誌でよく目にしていたような気がする。

雑誌「ダ・ヴィンチ」四月号を拾い読み。その後の浦沢直樹大解析!!の文字が大きく踊っている。



2002年03月12日(火) 岩瀬達哉「新聞が面白くない理由」(講談社文庫2001.9.15)これもまた少しだけ。

岩瀬達哉「新聞が面白くない理由」(講談社文庫2001.9.15)これもまた少しだけ。
たまたま読みやすい軽い読み物とうまい具合に巡り逢うと二、三冊続けて読み終えることができる。そんな出会いがない時には拾い読みや冒頭読みの繰り返しで、いわばこの日記のためにそうしているんすぎなくなる。
この文庫本も33ぺージまで読んだ。

プロローグの最終ページの18ページにはこんなことが書いてあって度肝を抜かれた。
●「国民の知る権利」が、「新聞」によってこれ以上侵害されないためにも、本書において「記者クラブ」のさまざまな問題を検証し、そのあるべき姿について考えてみたいと思う。●

目次を見ただけでも内容は明らかである。
第一部 記者クラブの堕落/国民の税金で接待される新聞記者たち/便宜供与で曲がるペン/
第二部 朝日新聞社の正体/抑え込まれる社内言論/
第三部 消えるジャーナリズム精神/他のメディアの記者を排除する新聞記者/
全国調査 記者クラブの便宜利益供与一覧表

なにしろまだ最初を読んだだけなので目次に見合った論証が展開されているかどうかは断言できない。しかし、ここまででも十分説得力はあった。

今、宅配で新聞を毎日受け取ることに疑問を抱く人は多くない。
今こそ、そういうあり方を疑って違うニュースの読み方・知り方を検討する時なのかもしれない。
現代の日本を知るための実に実用的な本である。



2002年03月11日(月) 丸谷才一「思考のレッスン」のレッスン2を読み、他の本も少し。

 丸谷才一「思考のレッスン」のレッスン2を読み、他の本も少し。
レッスン2のタイトルは「私の考え方を励ましてくれた三人」その目次または見出しは次の通り。
その前に、吉田さんのことを少し/中村真一郎ー文学は相撲ではない/津田左右吉に逆らって/ジョイスとバフチンの密かな関係/山崎正和さんが解いてくれた年来の謎/
ここに上がった人物との関わりを通してこれまでの仕事の跡づけをしているのである。この章の最後のまとめはちょっと大げさで丸谷才一らしくない。大家然としたことは言わないという「趣味」が丸谷才一氏にはあるはずだから。
読んでいる最中に申し上げにくいのですがそんなことは言わない方が、と思わされるところが忘れた頃に出てくる。

去年評判だったよと耳にしている、三浦雅士「青春の終焉」(講談社)を21ページまで読んでみた。「朝日ジャーナル」の事が書いてある。



2002年03月10日(日) 丸谷才一「思考のレッスン」(文藝春秋1999.9.30)の最初の章を読んだ。

丸谷才一「思考のレッスン」(文藝春秋1999.9.30)の最初の章を読んだ。
レッスン1「思考の型の形成史」はものの考え方や見方の成長を少年時代かを振り返って語ったものである。
文筆家の努めとは「正しくて、おもしろくて、そして新しいことを、上手に言う」ことだと語る丸谷才一がいかにしてそういう考え方を身につけたのか。丸谷フアンまたは支持者だったら泣いて喜ぶ企画である。
この部分の目次を書き写す。
丸谷少年が悩んだ二つの謎/読んではいけない本を乱読する/わが鶴岡ーただしお国自慢にあらず/俗説を覆す言論に喝采/「白玉クリームあんみつ」を排す/
最近は文壇の親分などと呼ばれ鼻持ちならない存在であるかのように扱う人もいてもの悲しい気分になることもある。
「梨のつぶて」や「遊び時間」は新しくかつおもしろい書評集であり、エッセイ集だった。今まで誰も気づかなかったことをうまい文章でわかりよく解説しているので、読後「これは正しい」を何度も思ったものである。
しかし、最近のものはやや色あせて見える。年相応に老けてしまったのだろうか。才気煥発、縦横無尽の風が最近は吹いて来ない。
革新がいつのまにか保守に変貌していたわけではないだろうが。

「インターネット書斎術」今日も読んだ。繰り返し読まなければならないほど難解な本ではないのだが、紀田順一郎氏久々のパソコン本ということがうれしくて持って歩いて繰り返し読んでいた。
言い過ぎを覚悟で言うと、この本はまだまだ現役のプロの文筆家の手になる名著である。



2002年03月09日(土) 待望の紀田順一郎「インターネット書斎術」(ちくま新書2002.2.20)登場。

待望の紀田順一郎「インターネット書斎術」(ちくま新書2002.2.20)登場。
待ちに待った本がやっと出てきた。ワープロ専用機も98(あのdbaseを駆使していた)も使うのみならずマックで蔵書票なども作って楽しむ先進機器のヘビーユザーがこの手の本を出さないわけはない。いや早く是非だしてほしいと思い続けて10年以上である。この空白を「パソコンをどう使うか」の諏訪邦夫氏がかろうじて埋めていた。失せ物と幸せは忘れた頃にやってくるの言葉の通り嬉しい不意打ちを食った。
隣の人が読んでいる本を何気なく見た。形と活字の並び方からちくま新書と判別できた。次に紀田が見え、次に書斎の文字が見えた。
すぐに本屋に寄った。幸いに見つかり、すぐに読み始め、読了。
もうこの分野で目新しいことは書けないことは分かっていても納得の内容だった。読み物としても実用的な指針書としてもさすが紀田氏というべき工夫と独創があり、充実した本になっている。
しばらく手元において繰り返し味読し、手元から離れたら忘れた頃に取り出してまた読む。



2002年03月08日(金) 「SFマガジン」「ミステリマガジン」「ちくま」「図書」「波」「本」を拾い読みの日。

「SFマガジン」「ミステリマガジン」「ちくま」「図書」「波」「本」を拾い読みの日。
「SFマガジン4月号(552号)」の看板は、北野勇作「イモリの歯車」グレッグ・イーガン「愛撫」小林泰三「空からの風が止む時」田中啓文「あの言葉」の短編四作品。
「ミステリマガジン4月号(554号)」の顔は、日本人作家インタヴュー(ミステリアス・ジャム・セッション)第16回の戸梶圭太(インタヴュー&文=中村貴史)の巻頭ページ。毎回これを読むとその作家を読みたくなるくらい快調なシリーズである。
おなじようにいつも面白く楽しみなのが、小熊文彦「彼らもまた忘れられた」第37回「ロアルド・ダール(その一)」と都築道夫「読ホリディ」第157回「また春が夏が」の二大連載エッセイ。
特に「読ホリディ」は西村京太郎の作品を話題にする暴挙に出てこちらを大いに驚かしてくれた。驚くべきエッセイとなった。
今日はあまりよめなかった。



2002年03月07日(木) 安原顯「へそまがり読書王」(双葉社)をやっと入手。

安原顯「へそまがり読書王」(双葉社)をやっと入手。今までは近所の書店に行き現物を見てああもうでたのかとわりに簡単に買うことができた。いつも一冊だけなぜか入荷していた風で苦労しなかった。それなのに今回はこちらからコーチャンフォーなどに打って出たにもかかわらず全く出回っていず、今日に至った。
さすがに紀伊国屋書店。押さえるところはちゃんと押さえていたのか、すぐに見つかった。
ザーッと流し読みしたらやはり安原氏は一味違う。意表をつく意見が必ずある。
川上弘美の「センセイの鞄」を酷評している。贔屓の作家だったはずなのにこの小説については散々である。かつて村上春樹にもそうだったように手厳しい。村上龍だってそうだ。
「センセイの鞄」は高い評価ばかりでいい作品だという声が多かったので大事に取っておいてあるのでこの意見には驚いた。「へそまがり」というタイトルは伊達じゃない。
取り上げている本の大半は自分とは縁の薄いものだが、筆者がどう裁いているかを知りたくてつい読んでしまう。
安原顯の2001年度版の書評集は出た。小林信彦の文春連載の2001年度版もそろそろ出ないか。



2002年03月06日(水) クリフォード・ストール(訳=倉骨彰)「コンピュータが子供たちをダメにする」(草思社)をちょっと。

クリフォード・ストール(訳=倉骨彰)「コンピュータが子供たちをダメにする」(草思社)をちょっと。
書いてある内容は題名の通り。ただし「子供」の部分を「大人」と替えても良い。現代社会におけるコンピュータと人間の関わりを真剣かつ地道に論じている。また、筆者はコンピュータを知り尽くした上でその功罪の「罪」を丁寧に解説しているので説得力がある。しかし、今の日本もIT革命やIT産業などが世の中を席巻しつつあるので、読む人によっては目新しいことは何も書かれていない平凡な本ということになる。
それでも、コンピュータの「功」の部分を十分踏まえた上で人の生活により大きな影響を及ぼしている「罪」の部分を真っ正面から見据えて論じ一冊にまとめた点にこの本の第一の意義がある。技術的にコンピュータを話題にすることがあっても、生きている人間の生活やその生活の中で日々波立っているこころとの関わりでしっかり論じたり考えさせてくれるまとまったものは意外に見当たらないものである。
現在、日本の学校の中で「情報教育」が導入されつつある点からいってもこの本を読む意味はあると思う。
「カッコウはコンピュータに卵を産む」は抜群に面白い読み物だったことを思い出した。この本は「抜群」ではない。静かにこころして読むのがいいようだ。



2002年03月05日(火) 芦原すなお「ミミズクとオリーブ」(創元推理文庫)を少し。

芦原すなお「ミミズクとオリーブ」(創元推理文庫)を少し。
こういうのを「癒し」というのか「弱し」というのか、ちょっと不思議な魅力を持つ妻に頭が上がらない夫の話を聞いて妙に心地よいものを覚えるところがある。なぜか軟弱が気持ちいい。
あまり売れていそうにない小説家が語り手でその「ぼく」と妻とが主人公である。ワトソンとホームズの物語を日本の普通の家庭に持ち込んだら、例えばこんな小説になったという和風家庭ミステリ小説といえるかもしれない。
全七篇の連作短編集で最初の表題作「ミミズクとオリーブ」を読んだ。「ぼく」の友人が突然最愛の奥さんに去られて相談に来る。友人の説明では家出をした理由が「ぼく」にはわからないが、妙に「勘」のよい「妻」にはわかったらしい、というような話が軽妙で素直そうな文章で語られるのである。
気分転換に最適とでも呼べそうなのんびりた感じの文章と「ぼく」の「妻」の魅力が相まってたいした話でもないのに一読忘れがたい印象を残した。
作者は「青春デンデケデケデケ」の作者である。

さて、半村良氏が亡くなった。六十八才は惜しい。SFマガジンの時代からよく読んでいたので(ので、と繋ぐのも変だが)死ぬとは全く思っていなかった。不死の人と思い込んでいた。山田風太郎に呼ばれて半村良もあちらへ出かけてしまった。「軍靴の響き」だけが残された。やはりまず「月の裏側」に寄ったのだろうか。
なんともはや冥福を祈ります。



2002年03月04日(月) 栗田昌裕「本がいままでの10倍速く読める法」(三笠書房知的生き方文庫2002.3.10)を一気に読了。

栗田昌裕「本がいままでの10倍速く読める法」(三笠書房知的生き方文庫2002.3.10)を一気に読了。
買いたい本は山ほどあるのに題名に惹かれてまた買ってしまった、読んでしまった。「20ページが1分間でしっかり理解できる!」とか「この読書法があなたの人生効率を大幅にアップさせる!」普段なら冗談としか思えない言葉が魅力的に光っている、そんなことが稀にある。
仮に1時間で300ページの本が読了できるようになって「積ん読」がなくなったとしても、頭の方が大量の情報を処理しきれずにパンクするだろう。著者の栗田さんが言うような鮮明な頭脳状態を維持するのは困難だろう。
冷静になればあれこれ反論が思い浮かぶがその時にはすばらしいことのように思えた。ときたま起きる衝動買いである。560円程度の買いやすい値段だったことも左右した。これが1000円近くだったら立ち読みで済ましたかもしれない。
単なる速読法ではなく体の調子や心の落ち着き、脳の活性化などの事柄を含めて総合的に速読の問題を捉えているので、難しいけれどももしも上達したらすばらしい経験をすることになるのでは、と思わせてくれる。
最後に読書スピードを再度計ってみたら読み始めの約2倍になっていた。もっとも一度読んだ文章をもう一度読んだわけだから手放しに二倍になった、凄いとは喜ぶことはできないのだが。
巻末の経験談のせいではないが「もしかしたら」といまだに思わせている、そう「微妙な」本なのである。



2002年03月03日(日) 松岡圭佑「千里眼 運命の暗示」(小学館文庫2001.12.1)読了。

松岡圭佑「千里眼 運命の暗示」(小学館文庫2001.12.1)読了。
結局、ヒロインがある種の呪縛から目覚めて活躍しなければ先に進まなかった。
突然、場面が中国の僻村に移る。もう万事休すかと思われた時、岬美由紀の自由が回復する。そのあとは蒲生と嵯峨のささやかな助力を受けながら彼女の超人的活躍が続き万事めでたしの大団円を迎える。
それにしても何千人もの人々を気によって吹き飛ばす場面は意表を突いている。まさかそんな一発逆転の打開策があるとは思いもしなかった。ここに作者の本質があるのかもしれない。相当なはったりである。
面白くないことはないがちょっと疑問符がついた。



2002年03月02日(土) 松岡圭佑「千里眼 運命の暗示」(小学館文庫)を読み始める。

 松岡圭佑「千里眼 運命の暗示」(小学館文庫)を読み始める。
岬美由紀の「千里眼」シリーズ第3作目であると同時に嵯峨敏也の「催眠」シリーズでもあるといういわば松岡ファミリーによるオールスターものに進化を遂げた作品である。
1作目の「千里眼」はきちんとした結末があって文句なしの面白さだったが、2作目の「千里眼 ミドリの猿」は最後に岬美由紀が敵に捕まって「続く」となり、欲求不満のつのる腑に落ちない作品になっていた。その待望の続編が「運命の暗示」である。「千里眼」で活躍した刑事、蒲生誠と嵯峨敏也が相棒となりヒロイン岬美由紀の救出に向かう。
まだ、100ページほどのところ。蒲生と嵯峨の二人は遂に岬のもとにたどりつく。しかし、二人が見た岬は正常な状態からはほど遠かった。そして気がつくとそこは・・・。
今のところ「千里眼」や「催眠」のように意表をつく抜群のストーリー・テラーぶりはそれほど見られない平凡な展開でじれったくなるが、やはりこの後あの場所でどう物語が動くのかが気になる。



2002年03月01日(金) 小林泰三「ΑΩ(アルファオメガ)」(角川書店2001.5.30)を一気に読了。

小林泰三「ΑΩ(アルファオメガ)」(角川書店2001.5.30)を一気に読了。
密度の濃いプロローグと第一部をゆったりとしたペースで進むとその後は一気呵成に結末まで行ってしまうしかない、スローボールが突然豪速球に変身するようなホラー的SFである。
題名から内容も文章も想像すらできないまま、すこし難解かもしれない、読みにくいかもしれないという予想で読み始めて驚いた。
プロローグでゾンビ系の話かと考え第一部の扉を開くとそこはまるでハード宇宙SFの世界だった。
場面が再び地球の日本に戻ったら、ジュラシック・パークとガメラと小林泰三ワールドの合体世界だった。
今まで作者が発表してきた作品の擬似総集編となる物語は今までになくアクションシーンが多くこちらを夢中にさせた。
魅力的なヒロインになりそうな女性たちをいずれもいいところで退場させるところに作者一流の手腕を感じた。
ホラー的SFなので心臓の弱い人や残酷シーンが苦手な人は回避した方がいいだろうが、抜群に面白いことは間違いない。予想以上に面白かった。
「SFが読みたい!2002年版」国内編二位の傑作である。


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