「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2017年03月30日(木) 寄り添い

私は今、自宅でヨガのクラスを開いているのですが、今日は久しぶりにプライベートのレッスンを行いました。私は実は、プライベートレッスンが好きなのです。理由はその方の体の状態に合わせて丁寧に伝えていくことが出来るからです。それから、練習のプランもその方独自のものになるので、生徒さん自身もより取り組みやすいであろうと思っています。

ちなみに、クラスの中でいつも大切にしているのは、呼吸を意識することです。誰もが知ることですが、私たちは、例えば手足が不自由になってもなんとか生きていけるものですが、呼吸が出来なくなると、脳は三分で死んでしまいます。このことから、呼吸というものがいかに私たちの身体にとって重要であるかがわかると思います。

そして、この、呼吸というのは、私たちが唯一自分でコントロールすることが出来る内蔵器官なのです。私たちは、意識する以前に呼吸をコントロールするのです。例えば歩行中に何処かからタバコの臭いがしてきた時、タバコの嫌いな人は自分でも気付かないうちに息を止めたり細めたりすることがありませんか?嫌いな匂いは嗅ぎたくないですし、または体に悪い物を入れたくないという防衛本能も働くのでしょう。また、深呼吸して新鮮な空気を体内に取り入れるという行為は、私たちが呼吸をコントロールできる証でしょう。

このようなことを、私はいつもクラスの始まりにお伝えするのですが、今日は特別に生徒さんの名前を呼びながら、話を勧めていきました。一つ一つのポーズでは、生徒さんの横に立って、彼女と同じようにやってみたりして。それはまるで、2人で取り組んでいるような感覚。いつもと違う空気の中、穏やかにクラスを終えました。終わった時、私はこの一時間、彼女の呼吸に寄り添っていたような気持ちになりました。


2017年03月22日(水) 自分の中の、別の自分に出会ったら

先日、日本人のお友達どうしで集まった時、一人の女性が「自分には2つの人格があって、一人は今こうして皆とあってる活動的な自分。もう一人はどこにも出れないで家の中にこもっていたい自分。いつも活動的な自分が外に出て楽しんだ後に、陰気な自分が、なんでそんなことしたの!と、もうひとりの自分を責めてくるので辛い」と話し始めました。

皆さんにもこのような事を感じた経験はありますか?

多重人格と聞くと、一般的には精神的な問題を抱えた人のことを指し、特別な意識を持ちがちですが、自分の中に幾らかの、違う自分がいるのは特別なことでしょうか?

私は、私たちの中には少なくとも3人以上の人格が存在していると思っています。その人格達は、それぞれの状況において自分のために活躍するのです。自分のためにそこに居るのですから、多くの場合は、自分の人生をよりよい形に持っていこうとして活躍するのです。これは特に問題がないばかりか、よいことでしょう?時には頭の中の声に気づいたりして、そんな自分を知っていれば、別の人格たちと語り合い楽しむことができそうではないですか?

ちなみに、冒頭に書いた女性のように、活動的な自分を攻める自分がいるような場合はどうしますか?責められたら辛いですし、活動できなくなるのも問題でしょう。

そんな時は、ネガティブな自分がいるその原因、つまり、「外に出ちゃだめ!」と言う自分がいるその原因を探せるように行動を起こすことです。自分を探求する。例えば、その人格の言葉や、頭に浮かんでくることをひたすら書き出したり、どうしてそう思うのかと尋ね続けたり。ネガティブな自分に巻き込まれないように、持っている能力をしっかり意識することが前提になる作業ですが、丁寧に続けていくことで、何かしら、小さな形でも、道は開けてくるのです。

冒頭の女性が言いました。「でも、トラウマは癒せないよね」
私は答えました。「トラウマは自分で癒やせるんです」
自分の経験談なしでは心のことのは語りにくいので、私は自分の経験を語りました。

私のしたことは、まさに、自分の抱えていた問題の原因を探せるように行動することでした。繰り返しになりますが、その人格の言葉や、頭に浮かんでくることをひたすら書き出したり、どうしてそう思うのかと尋ね続けたり、と。ネガティブな自分に巻き込まれないように、持っている能力をしっかり意識して、丁寧に続けていくことで、何かしら小さな形の変化が起きてきたのです。開けた窓の外から春風が、レースのカーテンをふんわりかき分けて、そーっとこちらへ入ってくるように、静かに静かに道は開けてきたのです。



2017年03月10日(金) 心の目で視えるもの

皆さんは、生活様式や文化の違いなどを理由に特定の人に対してネガティブな感情を持つことがありますか?そんな自分に気づいたらどうしますか?

私は最近、仲良くしようとして接してくれる人を受け入れられない自分に気づきました。それは、無意識のうちに相手が近寄ってこないような方法や理由を考えている自分を何度か演じたあとのことです。私は、相手は自分に好意を持っており良い関係を築こうとしているのを知っていましたから、私の中に芽生えるネガティブな感情は自分の過去の経験から来ていると分かりました。(文化の違いに対する戸惑いは、相手を否定する理由にはなりません^^)

しかし、どうしましょう。そんな自分をわかっても、今、受け入れられないものは、今は受け入れられないのです。それなのに、相手は私に好意を持っているのですから、そんな相手を嫌いになれる理由もないのです。

頭のなかで、この状況を思い浮かべてみて下さい。うっかりすると、罪のない人を嫌いになる自分への否定が起こると思いませんか? 私もその例に漏れず、暫くの間、そんな自分を持て余したのです。

しかしその後、私は不思議と(いやなものはいやなのだから、仕方がない)と思うようになりました。そして、ある時から、私はどれだけその人のことを嫌いなのか、その相手と接している時の自分を観察しようと思い始めました。

すると、どうでしょう。それまで感じていた、いつの間にか相手に対するネガティブな感情が沸かなくなってきたのです。少し大げさな言い方ですが、私はある日、自分実験をしました。ネガティブな感情を持っている自分に気づいた時、「自分を観察しよう」と自分に言って聞かせたのです。すると、そう思えて間もなく、否定の感情は何処かへ行って、ワクワクする気持ちすら沸いてくるのです。

この気持ち、とても楽なのですよ。興味深いと思いませんか?それにしても、この変化は何でしょう?

私は以下のように思います。

相手にネガティブな感情を持つ時の私は、見ている対象、考える対象が相手になっている。(実際に目の前にいる人を見ることではなく、心の目で観察するという意味です。観ている、という字を使うべきかな)反対に、自分を観察しようと意識する時の私が対象にしているのは自分自身。つまり、真に自分に目を向ける時、他者がどうであるかは関係がないのです。実際に、私の心の目が対象にするべきなのはいつも自分自身ですものね。

この私の経験について、あなたはどう思いますか?よかったら、あなたの意見を聞かせてください。そして、生きていくのに大切なこと、ニュートラルな生き方について語り合いましょう。


2017年03月03日(金) 行事に思うこと

日本では、今日はひな祭りの日なので、こちら米国でも、ひな祭りを祝おうとする人々を対象にして、日本食材のお店には、ひなあられや桜餅が並んでいました。
 
米国でも日本でも、その他の国においても、行事というものは古くからその国に伝わってきた、その国の歴史や特徴を表す意味のあるものだと思うので、人々はその行事を大切にすることで、その国の文化を次の世代につなげていくのでしょう。
米国は多国籍の国で、いろいろな文化をお手軽に経験できる利点もありますが、米国独自の文化が何なのかわかりにくくなっていることを思えば、その国の文化をその国の特徴として伝えていくことは、私たちが世界を学ぶという意味で必要なことだと思います。

そして、別の面では、これらの行事の日には悲しい思いをする人々もいるということでしょう。例えば本日の、おひな祭りですと、子どもを持てないご夫婦や祝ってくれる大人が家庭に居ない子どもさんなど。私の子ども達も、親の都合でひとり親家庭に育ち、普通でないと言われている人々の中に入るので、どんな思いを持っているか機会があれば尋ねてみたいと思っています。確か、以前息子は、そういうのは気にしない家庭だから、と言っていましたが。。。

さらに、問題と思う考えも浮かんできます。例えば、もしかすると幾らかの人々は、これらの行事にまつわる経済作戦に足を引っ張られているのではないか、ということです。雛人形は、品質にこだわらなければ、今では100円ショップでも買えるようになりましたので、決して高くはないですが、女の子が家庭にいることを嬉しく思う為に、必ずしも雛人形が必要ではないでしょうから、そうすると、その100円ショップ訪問さえもいらない気がしてきます。彼らの性別に関係なく、子どもや孫が、人生の喜怒哀楽をシェアする相手としてそこに居ることだけでも充分な喜びのように思うのです。

そんなわけで私は、歴史や文化を学ぶ目的以外では、いろいろな行事にあまり関心がありません。その代わりに、今の時期ですと、日差しが少し暖かくなって瞬く間に開花した梅の花をじーっと眺めている方が楽しいのです。時には、戴き物のひなあられでお茶を楽しみながら。







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