「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2016年12月28日(水) 心を軽くする一つの方法

最近、物事をプラスに取るということの利点を実感しています。例えば私は約2週間前、介護ファシリティーで薬の管理をする仕事を始めたのですが(米国ではこの職種の人をメディカルテクニシャンと呼ぶそうです)、新しいことを習うに付き戸惑うことも多々ですし時には失敗もあるのです。

そして、それらを全部含めてプラスに取るということをしています。どんな効果があるのでしょうか。それはとても単純。一日が楽しいということです。とても単純でしょう?きっと日記に書くほどのことでもないのかもしれませんが、この違いは大きいと思うのです。

これは、どんなつらいことにも目をつぶってプラスに受け取るということではないのです。私は、何かあれば自分のために立ち上がる勇気を持っていますし、時にはNoを伝えることも知っています。そして、そのような、いざという時には自分を守れる大人の私が、自分の周りにプラスを探していると意識しています。

職場でのプラス探しはプライベートにも続きます。<続きます>と書いた理由は、仕事を終えてプラスの気持ちで自宅に戻り、楽しいの延長で家族と会話している自分に度々気づくからなのです。時には人々の表情から想像を巡らせたり自分や余分な心配りをすることもありますが、気付いたところで切り替えて、いつも軽い心でひょいひょいと楽しく生きる。そうして過ごした一日は、明日のプラスに繋がります。プラスの連鎖です^^


2016年12月12日(月) 自分忘れのお返しに

 本日、カレッジの秋季講習が終わりました。実は、今学期は反省することがありますので、その1つを書きたいと思います。それは、自分を伝えるチャンスを何度か見過ごした、ということです。
 例えば、クラスで先生からあることを尋ねられた時、答えについて考えている間に先生が私の結論を先に出してしまいました。先生の結論は私の思うものと違っていたのですが、私はそのことを、すぐに答えなかったから仕方がないとしてそのままにしたのです。それから別の場面では、グループプレゼンテーションの時に、プレゼンテーションをどのような展開にするかという話し合いの過程で自分の意見を積極的に伝えるということをしなかったために、私の思う方法とは違う方法が取られ、その結果が思わしくなかったことです。準備段階で充分に時間と労力を費やした場合はどんな結果もオーライですが、今回のように自分を伝えることを忘れた結果は残念でした。
 このようになった原因はすぐにわかりました。私の中に、諦めがあったのです。他者との関わりの中で、まだ、自分を生きるということを躊躇する私がいることを実感しました。過去のことなので再現することでもないですが、仮にクラスの場面で私が自分を生きていたとしたら、私はきっと「あ、それは違います」とやんわりと伝えられたことでしょう。グループプレゼンテーションの準備段階でも、「こんな方法もあると思う」「私はこうしてみたいな」ということを伝えられたと思うのです。
 ということで、成長途中の場面を書きましたが、気付きは次のステップ。来年も又人々との関わりを通して成長するであろう自分を見守ります。


2016年12月10日(土) 次女のアイデアに思うこと

先日次女と会話していたときのこと、日本という国の話になりました。私たちの結論は<日本、このままでは危ないよ>
です。経済主義の日本は今、物で溢れ、あふれる物の代わりに人口はますます減り、そんな日本に落胆しきった人たちは海外へ進出し、うーんと将来には、一人が一人を介護するという時代がやってくるのです。日本は、このままでは本当に危ないのです。

そこで娘が自分のアイデアを語ってくれたのです。それは何かというと、「総理大臣が皆を洗脳して、皆がもっと仲良くしていれば、もうそれだけで皆が幸せになれると、人々が思うようになる」ということだそうです。

次女は今年22歳になり就職が内定している大人です。そんな彼女の発言。もう子どもではないのに、何を言ってるの。。。と思う方もいらっしゃるでしょうか。しかし私は彼女の言葉の中にある素朴さに、体の内側からこみ上げてくる熱いものを感じました。私の脳裏には、10年以上も前に、ダンゴムシを手の平いっぱいに集めて家に戻ってきた頃の小さな彼女が蘇ってきました。子どもは素朴で純粋です。疑うことを知りません。虫も人も他の生き物も、ただそこにいて、地球という1つの島で仲良く暮らしているのです。

娘の言葉の中には、彼女自身が生活の中で感じる自分には手の届かないところにある大きな力に対する結論も入っているのでしょうか。きっと、これまでに折に触れて、社会がもう少し良くなるようにと、大人の思考でたくさんのことを考えきたのでしょう。しかし、それらはたいてい、若くして国会議員になった青年たちがいつの間にか姿を消すように、古くからの習慣や社会のルールや何かの理由で小さくなって自分の奥の方へしまい込まされてしまったのでしょうか。そうして、最終的に、このアイデアにたどり着いているのでしょうか。

などと、思いつく範囲で私の思うことを書きましたが本当のところはわかりません。しかし私は、次女の中に今もある、人としての素朴さを手伝える大人でいようと思いました。


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