「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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今日は引っ越し準備の一日。掃除道具をリュックに詰めて自転車をこぎました。 壊れていたり汚れているところは写真に撮りました。必要なものを買いに100円ショップへ行きました。掃除をしているうちにアイデアが浮かんだので、もう一度100円ショップへ走りました。メジャーを買って、フローリングの床の寸法を測って敷物のことなど案を練りました。 一通り終わって家に帰る途中、楽しんでいる自分に気付いてうれしくなりました。 家で昼ご飯を食べた後、ちょっと横になるつもりだったのに目が覚めたのは1時間後。寝すぎてマッタリした体を起こして、こちらの家の片づけをしました。 夕方、お風呂道具を持ってもう一度新居へ向かい、久しぶりに「家の中にあるお風呂」に入りました。 一日のうちに自転車で行ったり来たりして、ベトナムで引っ越しした時と同じだと思い、又楽しくなりました。
家のそばにある杏の樹にはテントウ虫が集まっているのです。今日も観察していたら、偶然さなぎになるところを発見。テントウムシは子どもの頃一緒に遊んだ記憶がありますが、さなぎになるのを見たのは初めてですので感激しました。
垣根の向こうが少し見えるようになって、今までわからなかったことを知る機会が増えています。それは私の根底の部分と自覚しています。今日気付いたのですが、私は過去のことを知っても「そんなの信じられない!」と言って混乱していない。事実を、ごく自然に受け入れているのでした。 こんなことを、2冊目の本の材料に出来たらどんなに素適でしょう。こんなことを言って、まだ1冊目も完成前なのになぁ。いいのいいの。私の未来予想図は永遠に続く空のように無限に広がるのです。
今日はデスクワーク。一日中まとめをしました。今は一つひっかかあることがあるので時々そのことが浮かびますが、することはしたほうがいいので進めています。 夕方、新居に近い黒川の交差点より北にある志賀公園まで歩きました。その公園は「名城公園の小さいバージョン」のイメージ。外国製で背が高くて面白い形をした遊具があったので、上まで登って寝転がって(寝ころぶスペースがあったのです)空を眺めました。雲がゆったり流れていて時間を忘れました。遊歩道は大木に囲まれて、それはそれは安心するスペース。私は自然に木に話しかけ、やさしさを沁み込ませました。木に話しかけたり風の音に耳をすませたりして自然の景色に溶け込むことは、私を安心させてあげる方法の一つなのです。 私は子どもの頃からいつも安心できることを探していたのだと思います。先日ある精神史を変えたとき「この安心感はほんものだ」と感じたことがありましたが、それは体の細胞の全部が力を抜いてクタッとなっているような感覚でした。その日から、私はその安心を時々思い出しては全身に沁み込ませています。
夜は性の傷を癒やしに行きました。今日見た傷は今日気付いた傷でしたので、チャイルドが居るとわかったときには「ごめんなさい」の気持ちでいっぱいになりましたし、チャイルドに会えた時には心からホッとしました。私を安心させてあげられるのは私なのです。
可燃ごみ屋さんに持って行ってもらうために大きな段ボールをカッターナイフで切って小さくする作業をしました。カッターを持つ時一瞬「怖い」と思いましたが、けがをしないようにすることを意識して丁寧に切っていたらだんだん面白くなっちゃって…。子どもはきっと、このように遊びながら危ないものもうまく使えるようになるのだと思いました。ゴミ袋に入る大きさになった切れ端をごみ屋さんが持って行ってくれました。 引っ越し先の手続きは、あとは鍵を受け取るだけになりました。この家は3か月だけでしたが日差しが入って明るくて、お風呂はありませんでしたが気に入っていたのです。特に和式トイレは、様式のものよりも排泄物の観察がよく出来る。毎日楽しんでいましたから「名残り惜しいなぁ…」。どこに居ても楽しく暮らしていたら愛着がわくのです。 最近、今までうやむやになっていた部分について「違う見方をしよう」と意識しています。実は長く続いた「何か変だなぁ」の時期を経て、違う見方があることを発見したのです。いつも大切にするといいのは「境界線」を持つこと。私が自分と他者との間に境界線を持てているとき、私は心から自由なのです。いろんなことは人生を見つめるきっかけになります。
私は言葉で責められたりなじられたりする環境で大人になりましたから、私の口からは人を責めたり間違いを指摘したりする言葉がよく出てきました。でも、やさしい言葉を使おうと意識した分だけは身に付いている部分もあるようです。そういえばベトナムの女性と日本語で語り合っている時には会話を楽しむ中で自然に、やさしい心を基準にした言葉が使えるようになっていましたから、してみると出来る。こんなことを書き出しているうちに、今は切り替えが出来ていないことに気付きました。私はこれから「書く」と「語る」の切り替えを練習します。 本『インナーチャイルド』のP135には「人と人を結ぶ橋」のことが書かれてあります。人生で最初に出会う人間である母親との関係が以降の人間関係の基礎になるということです。私が長い間人を疑って過ごしていたのは、母が私と自分との間に「肯定的な橋」を作ってくれなかったからです。それなのに私は私と他者をプラスで結ぶ橋を、愛を基準にして築いているなんて、親から受けたマイナスを自分のところで止めているみたい。
引っ越し準備。地下鉄黒川へ行って住民票の発行をお願いしました。離れた場所の住民票が夕方取りに行けばもらえるので便利です。 荷物の整理をしてカーテンなどの大物の洗濯のためにコインランドリーへ走りました。大きなものは水気を含むと重くなります。実は2日前の夕方に親指の付け根が痛くなって腫れました。痛みが引いてきたこともあり、重たいカーテンを洗濯槽から引っ張り出すのに親指が動いてしまいました。 「痛いよ痛いよ〜。どうすれば引っ張り出せるの?」と呟いているのは、感じるままを感じている私でした。あ〜今日もまた、私は自分の感じたことを元に動いている。「感じるままを感じる」ってこういうことだったんだなぁ。うれしい・楽しい・おもしろいと再びニコニコ顔で自転車を走らせました。 しばらくあと、男の人に怒られました。ちょうど温かい気持ちの中にいたので、何処かへ放り出されたように混乱しました。 私を見る目が私を憎んでいるように見えました。怒りが私に刺さると痛い。私は瞬時に「怒りの塊は私のおでこを通過して後ろの壁に当たって砕ける」というイメージを作っていました。 あとで、その目を思い出し、子どもの頃、急に怒り出す親に怯えながら原因を探していた様子とつながりました。今日、最初に怖がったのは大人の私なのにフラッシュバックしたのでした。それがわかった後、心が、怖がった自分を補うようにやさしい目を探しました。しばらくすると「私の目」が浮かんできました。やさしい目の人を探して自分が浮かぶなんて、成長している証だと嬉しくなりました。私は過去より成長した分だけ、やさしい目をして私を見ている。私はきっと、自分にやさしい大人に育っているのでしょう。 夕方、この家の日割り家賃を払いに行きました。でも大家さんは「出る時の電気代などと一緒でないと困る」と言って、沈黙になりました。数日前にそのように話をしていたから仕方がないのです。最後には受け取って下さいましたが、私は大家さんの都合を聞いていたのに、たまたま話をした男性の情報を基準に動いてしまったのです。 まとめファイルを点検しました。数日前に、約1ヶ月間目標地点にしていたことは自然に消滅していたとわかり、目標を失ったように宙ぶらりんのような気持ちになりましたが、思いつくことをしているうちに流れの中でまとまっていき、その変化が自然で楽で面白くなっています。その中で私の人生が重なりました。私はいつも目標に向かって進んでいます。目標があることは大切。そして「どうなるかな?」を楽しんで動くのがいいのです。私は今まで全てのことに力みすぎてイノシシのようにつっ走っていたのですョ。もちろん、このことがわかるのは楽な方法を知ったから。いい変化なのです。 日暮れ後に外へ出たら、昼間の男の人の怒りを思い出し、頭の中は歌を歌っていました。昨日は歌が止んだと喜んで、今朝も感じるままの自分に喜んで、フラッシュバックしたら歌っていた。それなら私を大切にできるように成長すればいいですねぇ。私は感じるままを感じられる自分が増えてきているのですから。その私を大切にします。
夕方うれしいことに気付きました。私はこの頃感じたことやその続きで考えていることを浮かんだその瞬間瞬間に自身に、連続で感じ取っているのです。それから、頭の中で歌を歌ったり調子をとったりしていないのです。前から出来ていたことがあったのかしら?わかりません。でも、きっと「感じるままに感じる」が出来ているということなのでしょう。なんて素敵なことでしょう。あ〜うれしい。 うれしい気付きは散歩の帰り道でしたから、道行く人にもニコニコしました。私は本当にうれしいです。そして他のことも、もっと瞬時に感じ取れるようになりたい。なりましょう。
引っ越し日が決まったので準備できることは整えておくことにしました。バルサンを買って引っ越し日の手配も整えて、二日続けてコインランドリーを探して歩きました。今日は1件見つけましたが、値段が1回800円と今までの5倍でビックリ。この値段なら洗濯機を買ったほうがよさそうだなぁと踵を返しました。 帰りにポストへ立ち寄りました。姉へ帰国を伝える手紙。「手紙さん、無事に姉のところに届いてね」。私は自分の本を持って姉に会いに行ける日を楽しみにしているのです。 夕方、意図的にまとめをする方へ切り替えました。今は「文章の配置をどうするか」のところにいます。
穏やかな夜。数時間前の出来事が影響しているみたい。 去年の夏くらいからかな。脳裏に包丁と手と赤い色が浮かぶようになりました。このところ頻繁に見えるようになって、台所に立つ時はストロークの言葉を沁み込ませていました。 今朝も新聞を広げたら、又。新聞を読みたい気持ちがその映像をかき消しましたが、目は活字を追うだけになり止めました。心に疑問(新聞を読もうとしただけなのに、何が私の心を掻き立てたの?)。 誰かが泣いているのがわかりました。そう。私は「痛い」と泣いてもよかったのだね。ん?もしかしたら一つ進めたのかな?浮かんだままに捉えて、夜までは何もありませんでした。 夜、能力のリストを読んでいたら、もう一度その映像が出てきました。反射的に打ち消そうとする私。けれどその映像は過去のもの。「そうだ、過去のものだ」と切り替えて、気持ちを書き出していたら…ふいにつながったのです。過去、活字とその映像の出来事が1セットになっていたと。背筋がゾクッとしました。ごろんと横になったら涙が出てきて30秒くらい「えーんえーん」と子どものように泣きました。それが自然に止まったら何かが軽くなって…。何が?解らないのです。でも私から何かが落ちて 「もう大丈夫」 の気持ちになったのです。 今日は偶然「医療の世界」のことを書いたファイルを読んでいましたが、私は医療の世界では説明出来ないことをしているのではないかな〜。なんてね。
「試しにもう一軒」の軽い気持ちで別の不動産屋に入ったら、昨日選んだものよりももっと安いマンションの1階部分を紹介されました。不動産屋から歩いて3分の場所だったので見に行ってみると、レースのカーテンが付いたまま。窓を開けると「あら、庭がある」。部屋はリフォームもまだらしく「壁の汚れが気にならなければもっと安く出来ますよ」。確かにクロスの白い壁は真新しい状態ではないけれど、生活するのには気にならない程度でした。お店の人は「出て行くときの掃除代だけ実費で負担していただければ」と言いました。でも出て行くときまで値段がわからないのは不安です。いろんな事情で価格が上乗せされることもあるでしょう。値段が決まっている方が安心ですが、反対に最初から値段を決める場合は4万円だそうです。それは仕方がないのかなあと思いつつ(あの部屋の掃除に4万円?どこをそんなに磨くの?例えば換気扇?炭火焼肉はしないけどなぁ。ん?もしかしたらクリーニングはまだ入っていないの?) 私が「入る時はバルサンを炊けばいいでしょう?! 出るときは、今の状態まででよければ、私掃除します」と言うと、お店の人は「家主さんに交渉する」と言いました。 いろいろと思いをめぐらせて考えている間にも、お店の人は契約書を持ってきて話を進めます。「説明を受けたという証にサインを」と言われましたが、私はサインをしませんでした。その代わりに(どうしようかなぁ?)を楽しんでワクワクしていました。 家に着いてしばらく後に電話がかかり「月々の家賃だけでいい」と聞きました。家賃だけでいいのなら、まるでホテル暮らしをするようなのです。それに4万円が浮くのなら、私の経済事情がもう1ヶ月分楽になって心の安心が増えるのです。私は昨日の不動産に断りの電話を入れてから、今日の物件を契約しました。 その後に思い出したのはベトナムに居た頃のこと。「私はベトナムで家を探して引越して歩いたのだったなぁ〜」。暑い中自転車をこいで家を探して歩きました。決まった時はいつも嬉しかった。あのように動く行動力があったのですよねぇ。思い出すだけでもあ〜嬉しい。しかもそれは、自然に湧いた好奇心の延長だったのだから…そのことを思い出すと、又目じりが下がります。 家探しの合間にまとめをしました。心の父から一つ「このように書くといいよ」の提案があるのですが、私はそのように書くのには成長が足りない気がしましたが、「出来るかどうか」を始めてみると楽しさが増して別のアイデアが浮かんできたのです。成長するには今までとは違う視野で動いてみることですねぇ。 あら、久しぶりに長い日記になっちゃった…。
引越し活動。お風呂の無い家なら3万円以内で収まりますが、汗ばむ時期になって浴室が無いとしたらお日様の下で運動することをやめてしまいそうなのです。 不動産屋では「日当たりとシャワーがあればどんなに古くても大丈夫です」と伝えました。合計3件の不動産を回って7つの物件を見ると、家賃はどこも似たり寄ったり。私の全財産でフリーで居られるのはあと2ヶ月。今掛かる費用が一番安いところを選びました。
朝日新聞掲載の昨年ある賞を取った女性作家の記事を、その見出しに惹かれて読み始めましたが、言葉の表現に違和感があって、すぐに読めなくなりました。それから 私も同じ表現を使っていたことを思い出して楽しくなりました。 私は子どもの頃から「辛さを書く」ということをしてきて、ある場所では受け入れられました。でも「マイナスの感情を紙の上に吐露するだけの形」では、エネルギーを吸い取られて燃え尽きて、書き終わると「しばらく読みたくない」と思うことも。「燃え尽き症候群」だったのでしょう。 この頃書いている文章はどうかと言うと、ふんわりの心で書いたものはいつも読み返したくなるのです。「ちょっとマイナスが入ったなぁ」と感じるとき「あの日の日記を読もう」と探しに行くことがあります。これはきっと、今の私に楽なところが増えているからですし、ふんわり文章を書けることが増えてきたから過去の文章と比較できるようになれたと感じています。面白い変化です。
私は過去より楽に出来たことは全て「精神史を変えている」とも捉えていますが、楽しんでいると自然に精神史を変えられることがありますね。今日は流れの中で自然にそのようになりました。後で「私は願ってきたあの精神史を変えられたんだ」と気付いて心から嬉しくなりました。何故なら、そのことは5年も前から浮かんでいた思いだったからです。 浮かんでから実行に至るまでに5年の月日が掛かったのは、私はそのことを何か大変なことのように感じていたからです。けれども実際に経験してみると「開けた窓からスーッと風が入ってくるように、自然で軽いもの」でした。その軽さを思い出すと、私は目じりが下がります。心が「春のお花畑」のようになっています。
運動している時、スタートしてしばらくすると身体が興奮状態になるのがわかります。「もっと動きたい」を満たそうとしていると気持ちもハイになって優先順位を忘れてしまいそうなので、適当なところで止めて調整しています。このことがきっかけであることが浮かびます。 私は過去、楽しい時は「すごく楽しい」、悲しい時は「すごく悲しい」と感情のコントロールが出来ない大人でした。どちらの気持ちもあっていいですが、出来れば「すごく」を除いて表現できるようになりたい。私はそよ風が吹くように自然に自分を表現できる大人になりたいのです。 言葉は心から発せられているのだから、私は「言葉にすることを止められたチャイルド」を癒やすことを続けます。
私は乱暴な言葉の中で育ってきたから乱暴な言葉をよく知っていました。そして今は「丁寧な言葉があること」を知っています。言葉って不思議。心が穏やかだと穏やかな話し方になります。それに、新しい言葉を知るとワクワクします。こんな私の心には校正のためにある言葉も浸透します。 人生は長いスパンで進んでいて今も通過点。死ぬ時にはどんなにやさしい言葉が使える人になっているかと想像すると、さらに穏やかな気持ちになります。もちろん、これは私の未来予想図。私は「なりたい自分」になれるよう自分を育てているのです。
ストレスでお腹が膨る原因になっているチャイルドを引き出そうと試みました。お腹に「ストレスかけて、ごめんね」と語りかけて身体の力が全部抜けるようにイメージを作りました。チャイルドは出てきてくれなかったけれど、そうしている時の心地よさが 「又してみたい」 の財産を私に残しました。私の感覚が私を次のステップに導いてくれたの。 今までにも身体に出た症状と心の状態をつなげたことはあるけれど、今回のように「これが原因」とピンポイントにすることも出来るなんて…。「このような形の気付き方もあった」の実験をしているみたい。 あとで散歩に出たら…なんだろう?この感覚。歩いているのに足が地面から浮いています。 私、ふわふわ星人になっちゃったみたい。楽に生きていると不思議なことが起こります。
この頃朝の散歩が日常になっています。今朝は名城公園まで行って、ジョギングコースをゆっくり走って1周。今日は1300mを休まず走ることが出来ました。コツは他の人の動きに左右されず自分のペースで走ること。いつも私のペースで動くのがいいのです。 帰りに、道路の脇で草を抜いている女性に出会いました。近寄ってみるとその草がドクダミだったので声をかけさせていただきました。ドクダミはベトナム滞在中の私の常備野菜だったからです。日本のドクダミは見た目はベトナムのものよりも色が濃くてしっかりしています。 午後は育成会。テーマを二つ持っていたので、そのことを意識することを大切にしました。 今日も「細胞」の話を聞きましたし、私は新しいことをするということをいつも意識すると、より成長できます。 感じているのは「私の中の垣根が崩れて向こうが見えるようになった」感覚。心くすぐられる感じ。プラスに向かうといいな。きっと向かうでしょう。
この数日、今まで気付かなかった自分を発見することが続きました。その部分を見ることが出来るようになった喜びと、成長し楽になることの楽しみを味わっています。その為に「ひたすら自分を確認する作業」を続けることにします。 午後、名古屋城まで散歩しました。私が池のそばに立つと、抱き枕に出来そうな大きさのコイが集まってきて、二つのひれでバランスを取って私のほうを向き、口をあんぐり開けました。明らかに「餌がほしい」のポーズ。その姿は水の中とはいえ尾ひれで立っているようで、しばらく眺めて遊べました。力を抜いて生きていると小さなことで遊べます。
今日は大切なことを確認した日。私の全ては心を基準にして動いているということ。今の楽しみは未来の楽しみにつながっているということ。それは心を基準にする自分がいて持続できるということ。私は、新しい楽しみのために宇宙の世界に飛び込んだ自分を大切にします。 穏やかな一日の終わりの入浴タイムは、いつもの倍くらいのんびり時間を過ごしました。
よく行く銭湯の洗い場には小さな椅子があります。今日は椅子に座って身体を洗っていたら、椅子が滑って身体が斜めに転んでしまいました。スローな転びだったのでおかしくて「転んだ」と一人で笑いました。隣に居た女性も一緒に笑いました。 湯船は私が大の字で横たわれるくらいの広さで小さな噴水があります。噴水のお湯は真ん中から外側に向かってふわ〜んと落ちてくるので、全体はリンゴのような形をしています。外側は水の壁みたい。その中に手を入れたり水の壁に指を入れて、ふわ〜んの形を壊してみたり面白いので、いつもしばらく遊んでから上がります。 いろんなことを楽しんでいる自分を見ていると「もっと楽しめる」という発想が浮かびます。今満たされているように感じていることもその奥にもう一段上の楽しみがあるような気がするから。
昼に、印刷したファイルを持って通りがかりの公園へ行きました。その公園は、ベンチの塗装は剥げて辺りは雑草がいっぱい。人々から忘れられたような姿なのに、なぜか心が落ち着きました。空を見上げたら、伸びっぱなしの木の枝が空を覆うように広がっていました。私の安心はその緑に守られた感覚からやってきたみたい。 乱れた文章を読んで頭をひねった後、心の父と話をしました。父は「出来るところからするのが基本だよ」と言いました。そうですよねぇ。私は時々、小さなことを大きな問題にしてしまうことがあります。 そして、こんな私も一昨日から、さらに楽しさが増しているのです。本当にワクワクしています。どうしてかなぁ?解らないけれど楽しいのだからそれでいいのです。 夕方遊びに行きたくなったので自転車にまたがってブラブラ散歩。風の噂に聞きましたが、名古屋では自転車のことを「ケッタ」と言うのですよねぇ。 私の「蹴ったマシーン」は白くて折りたたみ式です。いつかは折りたたんで持ってみようっと。
この頃父親に見捨てられたチャイルドを癒やせるようになりました。今日癒やしの作業に利用した能力は「ベトナムで一年間暮らしてきたこと」でした。今まで見えなかった部分なので「一つ楽になる感覚」を楽しんでいます。 本のほうは「子ども引き出し」の「私を表現する時の主語」は「お母さん」としていましたが、それを「私」に変更しました。実は子ども達から最初の手紙が来た時、私はその返事に「私」を使いたかったのですが、その時は辛抱したので今回の変更は喜びです。これは、私が子どもと自分との間に境界線を保てる私を意識することにつながっているのです。 私は、本には「ありのままの私」を書きたい。行きつ戻りつし6年でやっとここまで来た私をそのまま書きたい。「等身大の私」を書いた本は私にやさしい本なのです。
楽しんでいる自分を見て「心の成長」という言葉が浮かびました。 私達人間はいつも成長しながら生きています。今日出来なかったことも次の日か幾日かを経て出来るようになります。 心の成長も同じ。今日感じられなかった自分も明日かその幾日か後には気付きます。ある自分に気付くまでの時間は、すぐの時もあり長くかかる時もあるけれど、もっと見たいと感じた分だけ見えるような気がします。自分への「?」の好奇心は新しい自分への始まり。全ては自分を肯定する頃から始まっています。 それにしても例えば料理や運動は、出来るようになったことは出来た自分として持続できるのに、心のことに関しては時々後ずさりになります。傷ついたチャイルドのなせる術ですが、もったいないことをしています。今の自分を認めると、それが出来るようになる青写真が浮かびます。 夜、本『IC』を読んでいたらワクワクしてきました。 私には人生で起きるいろいろなことに対する回復力があります。それは私を作る小さな細胞の力でもあるのでしょう。私の身体は60兆個の細胞で作られていて、身体の中の心臓という器官も60兆個のうちのいくつかの細胞で出来ています。心にも細胞はあるのかな?そもそも心って本当はどこにあるの?心が見えたらいいのにな。 細胞という言葉から、この頃社会の話題になっている「脳死」の話になりますが、(臓器移植のための捉え方であるという前提ですが)私は心臓は全身に血液を送って命を続けるポンプの役割だと感じています。私が心臓というポンプを使って人間として生きられるのは、人として感じたり思考したりする脳を持っているから。このように捉えると、私は臓器移植が前提にある場合の「脳死は人の死」と感じます。子どもの臓器提供の年齢が議論の一つに上がっています。私は自分の命に対する捉え方を浮かべると子どもの場合は・・・も自然に決まってきます。けれど私に決められるのは私に関することのみです。そしてどんなに小さな子どもさんにもその子自身の気持ちがあるのだから、私は自分の子どもが小さい時には出来なかったけれど、大人が日常の会話にこれらのことを入れて語り合っていると、大人も子どもも自然に考えがまとまるように感じます。
今週は母からの虐待の傷を癒やせるきっかけを多く掴みました。私はいつも私の好奇心を基準にすることが出来ると素朴に生きる自分を育てることができます。 私は新しい自分になるための練習を続けています。私はチャイルドを癒やした分だけ自分を見守ることが出来ます。私は自分の太陽になっています。
夕方心友と電話で話をして切った後に「もう一つ聞きたいことがあった」と思い出して、今度はメールにしてみようとボードを打ちました。丁寧でわかりやすい文章が出来ました(このように感じるのは、日中に頭をひねるファイルを見ていたからでしょう)。 書いたものを読んでみたら、読む為の言葉は口で伝えようとするとぎこちないのです。それで(会話する時はどんなふうかなぁ?)と実際に話しかけるように語ってみました。すると「えっとね」とか「それで」とかいろいろ付属が付いてきました。 「なるほど、私の言葉はこんなふうに飾りが付いてしまうのだ」と改めて実感。「えっと」を付けないで語ろうとすると書いた文章が浮かんできて一人で笑えました。遊び感覚で出来た自分が面白かった。私は、出来るようになりたいことは今までと違うことをしようと意識することで出来るようになると信じています。 日中は今日も〈書き書き細胞〉を育てました。
今日は自分をありのまま語る練習が出来ました。私はその時、理想の女性のイメージを頭に置きました。語る自分を見て「あっ、出来てる出来てる…。してみようとしたら出来るんだなぁ」と喜びました。 私は自分の為に自分にやさしい言葉を聞こえてくるように動きたい。出来た自分を思い出したらこの次も出来そうです。喜びを心に沁み込ませました。 夜、本『インナーチャイルド』を読み、自分の本の事を自分に問いかけました。私は今「自分にいい本」を作ろうとしている。よさを求めるために動いていて感じるいろいろなこと。どれも心の成長につながっているけれど、時々大変になる。その自分をどうすればいいのかな? いい文章が出来ても作業中の出来事にトラウマが残ったら2冊目が浮かばなくなるでしょう。私にとっての「いい本」は私自身が自由な心で作った本です。それが出来れば2冊目を作ってみたくなるでしょう。 私は何をすればいいのかな?私はもっと自分の心に寄り添って自分のプラスを大切にして動くのがいいです。それから他者との境界線を意識して丁寧にする自分を意識しましょう。 それに私は1ヶ月前にあることを決めて新しい細胞を育てているところなのです。その中でプラスの変化を感じるとき「面白いことをしている」と実感します。私は自分の未来を楽しみにしましょう。きっと自分の何かが見えるはず。
今朝は雨上がりで土が濡れていたので家の周辺を散歩しました。家から5分くらい歩いた高台に名古屋市立工芸高等学校がありました。「工芸というのは何を勉強するところなのかしら?」と敷地の中を覗くように眺めてみると、まだ新しいモダンな校舎と広い敷地。私は名古屋の街を見ていつも「この町はお金があるのだなぁ」と感じます。 日中は浮かんでくるまま軽い心でまとめをして、気付いたらページ数が8ページも少なくなっていて感心しました。文章も少し離れたところから眺めるのがいいみたい。
今朝は家の近くの公園で運動しました。名城公園のジョギングコースに行っても1周で満たされるのですから家の近くの公園を走っても十分なのです。走った後壁投げを。いいえ…球拾いをしました…。 日中は雨。休憩の時は料理をしたり部屋の中を歩いたり、こまめに腰を浮かせていたなぁ〜。夕方雨が小降りになってから、残り少なくなった灯油を買いに歩きました。しかし都会の過疎地のガソリンスタンドは18時で閉店していました。 作業では別々のファイルの文章に Link を貼る方法を見つけて喜んでいます。この機能がほしかったのですョ〜。
今朝は早起きをして名城公園まで走りに行きました。初日なので公園内のジョギングコースを徒歩を交えて一周。疲れたら散歩にしようと思っていましたが一周した時に足が「初日はこれくらいで…」と知らせてくれたので帰り支度をしました。 公園内には朝の運動に来ている人がいました。ため池の柵を使って腹筋をしている人もいてベトナムの朝の風景を思い出しました。ひんやりした空気と左右に広がる緑が気持ちよかったので又走りたいです。
本の見通しが付きました。振り返ってみれば昨晩「子ども達へ宛てた引き出し」を完成したことが効果を挙げていました。親として果たす責任の一つは私の事実と間違った親であったことを謝罪しておくこと。これを実行することは私にとって大切だったのだなぁと改めて実感しました。 午後、全ての「人格引き出し」を印刷してみました。全部の印刷は2回目。内容は1回目よりはまとまっています。ページ数が圧倒的に多いと気付いて「どうしよう〜」と腕を組み「重要度の低いものから削っていけばいい!」とサクサク削除し始めて「自分で感じたことを元に動いている」という感覚の中で楽しみました。 夜には「親が出来ない」と泣いていた人格のチャイルドが見えました。
育成会。私は相変わらず自分を語るのが下手です。そして今日はそんな私の目標になる女性を発見しました。「どうしたらいいのかなぁ?」の中、探していたものを見つけたようで嬉しい。私もその女性のような語りが出来るようお手本にして自分を育てます。それには心の傷を癒やすことが優先。
今日は印刷したファイルとお弁当を持って名城公園へ行き太陽の下でまとめをしました。名城公園までは私の家から自転車で10分くらいです。公園には小学校の子どもさん達が遠足に来ていました。池ではスズメやカラスが水浴びをしていました。私はナンジャモンジャの木のそばでお弁当を食べました。 公園内に野球で通ったグランドがあります。グローブを持っていたので壁投げをしたかったのですが有料と書いていて、中に人が一人も居ないので入ってはいけないと判断しました。ジョギングコースを走っている人も居ました。中にはスーツ姿で携帯を握って走っている人も。その人はジョギングではなかったのかしら?! 私も朝走りに行ったらどうかなぁ〜。
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