「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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長丁場の校正作業で目が疲れたので今日は外で手書きしたファイルを音読して音声入力しました。ご認識が多いので使う頻度が少なかったのですが今日のように目が疲れているときには助かります。 大きな声ではっきり話すと上手に読み取ってくれます。トレーニングを重ねれば認識度が高まるそうですから、使い上手になればもっと楽になるはずです。
昔私の中にピエロ役の人格がいました。その人格は実家の暗い雰囲気を盛り上げ外に出てもいつも人々を笑わせることにエネルギーを使っていて漫才が好きでした。心の傷に気づいてからは漫才やお笑い系統のテレビを見ようとしなくなりました。それが今「お笑い番組」を気分転換に利用してなおかつ楽しめるようになっているのです。その自分を見て(傷ついた自分が残っていたからそこから遠ざかっていたのだ)と解りました。だから「見ようとしなかった」は見ることが出来なかったとも言えます。 それに自分の欲求を人に伝えたり「No」を言うということが以前よりも楽に出来ている自分も居ます。 気づかないうちに自然に出来るようになっていることがあるのですねぇ。
昼間名古屋城の辺りまで自転車で行ってベンチでおにぎりを食べました。中心なのに緑が多いので森林浴をした気分です。夕方お風呂に行く時になって、昼間持って行ったウィンドブレーカーがなくなっていたことに気づきました。おにぎりを食べる時にベンチの横に置いたからだと思います。ちょっと羽織れる上着がなくなってしまってショック。それを買った時の気持ちを思い出して、チャイルドが泣き叫びました。癒やしの作業をしたら「これから気をつけよう」を意識できるようになりました。帰国してから後、外に出て物が無くなるのは2回目。これから気をつけよう…。お風呂にはダウンのジャケットを着て行ったら昼間より気温が下がっていて丁度よかった。フフフ。
今日は昨日よりもさらに元気。80ページあるファイルの校正を朝9時から開始してお昼を挟んでさらに続けて、午後3時ごろ進み具合を見たら25ページだったので「ひゃ〜、あと50ページ?!」と声が上がりました。長丁場。そして出来た分は進んでいます。 夕方嬉しいことがありました。内容はまだ書けないのですが、私がこれからも、どこにいてもやさしく弾んで生きるための財産を捕まえたという感じです。
昼過ぎ買い物に行きましたが、食欲の戻りが7割のせいか通常ならつい手が伸びるものを見ても買いたいと思えず(元気になりたいなぁ)と健康を切望しました。さばの味噌煮が目に留まったので「これなら食べれそうだ」と思って買い、帰り道は少し気分が沈みました。 ところが、家に帰って味噌煮を一口つまんでみたら…「おいしい!」と声が出て、昨日は塩辛いものが食べたいと思っていたのを思い出しました。辛いものを求めるなんて初めてですし今まで好んで食べていたものは欲しくなくて違う食べ物なら食べたいなんて、私は食の好みが正反対に変わってしまったの? 原因はわかりませんが食べたいものがあるということを心から嬉しく思いました。私にとって食べ物がおいしく感じることは健康な証拠だったのです。 夕飯におそばを作っておいしく食べました。
左のわき腹の奥が痛くてお腹が張って気分が悪い日が続いたので、今日はいつもより注意深く自分の心に意識を向けて、自分に寄り添って過ごしました。 「頭が疲れたなぁ」と思って布団に入ったら2時間が経っていました。私はいつも自分を楽しんでいると思っているけれど、楽しい時と飽きる時とあり、疲れたと思っていなくても体は疲れているときがあると知りました。そういえば帰国してから4月初旬までの間に何度か言葉のやり取りに疲れて「本作りをやめれば楽になる」と思ったことがあったのに。私はもっと自分を大切にする自分を意識しなければ体が痛んでしまいます。 夜には「何か食べたい」と思うようになりました。体の具合が悪くなった時、私の新しい細胞は痛んでいる部分の応援に行きます。
自転車で散策していたら堀川の上流に出ました。小さな川を挟んだ遊歩道の上の空を覆うように並んだ桜の木の枝が川の水に触れるくらいに伸びています。さらに川上から流れてくるサクラの花びらを眺めながら食事をしている人も居ました。数週間前にはさぞかしきれいだったことでしょう。 その道を自転車を押して歩きながら本のことを思いました。あんなふうに書くにはどうしたらいいかな?このことを書くにはどうしたらいいかな?と自分の材料を広げて少しのアイデアをメモに残し、最後は、私に書けるのは今の私の状態だということになりました。何でも自分が楽しいようにするのがいいです。
ゆったり丁寧にまとめをした一日。ある一文が今までと違う角度から見えて癒やしの作業につながったり、心の成長を感じる日でした。最近は学童前期のチャイルド(だと思う)がよく出てきます。今まで見えなかったところをみているなぁと実感しています。
今日はお休みの日。温かい羽の下に帰り広い大地に大の字で寝転んで遊んだような気持ちを私の細胞の一つ一つに染み込ませました。大地をイメージして愛を感じたのは初めてです。私は自分の大地になって自分を見守ることをすることにしました。私が私を安定させてあげることが出来るとやわらかくプラスに生きる私が持続できます。 その心で新聞を読みました。最近新聞を読むのが以前よりも楽しくなっています。その理由の一つはアメリカ大統領オバマさんの動きが前向きで楽しいからです。過去の歴史の中で閉ざされてきたいくつかの国とのドアを対話方式で開こうとしている様子から、ありきたりの言葉ですが暴力や戦争という言葉から離れていけるのではないかという希望と安心を得ることも出来ます。 その解説の中にある中南米という言葉や今まで知らなかった国の名前も出てきますので、最近では新聞を読むとき以前からあった辞書に加えて世界地図も並んでいます。
言いたいことが一度に伝えられず自分の中に言い逃して終わった為に、後から膨らんで出てきてしまいました。私は根底の部分が残っているなぁ…。でも、今はその自分が出てるということが分かるようになったのだから成長はしているのです。 それに、私は今日新しい発見をしました。自分は今、普通の世界を歩いていたら蓋をして閉じ込めたまま触れずに終わっていた世界を自分で見に行っているということです。私は心の傷が根こそぎ取れる日を見ています。 この出来事をきっかけに今の自分に疑問が湧きました。自分は今本当にしたいことをしているのかな?今は無職だから起きたい時に起きて食べたい時に食べて、全て自分がしたいように動いているけれど、肝心の本を書くということを、私はどう捉えているのかな? うまくいくときは嬉しくて、うまくいかないときというのはあまりないからいいはずなのだけど、何かが足りないと感じる。何故? 夜、その原因がわかりました。私はここしばらく、自分の書く能力を信頼出来ていなかったのです。書いたもののよしあしを選別する能力がなく一人では動けないと思っていて、自分の文章の出来具合がどうかということよりも、他者にOKをもらうことに意識を向けていたのです。 でも本当に私には能力がないのでしょうか?私は考えることも話をすることも出来て他にも出来ることはありますし、何よりも私は生きている。それでいいと思います。それなのに何かが足りませんし、自分で出来たという達成感を得ることが出来ません。それは何? 本読みをしていたら原因がわかりました。私は他者を利用すると決めた時にそれまでしてきたことを全て落としてしまったのです。設定は全く違いますが、過去に強い人の前で無気力な自分になっていた自分と同じでした。そして、私がこのようになるのは、子どもの頃に人として満足を得るという行為を親に奪われていたからでした。どんなに小さな赤ちゃんにも自分で出来ることがあり、そこで心の満足を得るということをしていると思います。私の物足りなさは、これらのことを奪われたチャイルドに巻き込まれてその発想を浮かべられなくなっていたからです。 と自分を発見し、無気力な自分にさせられたチャイルドを癒やすことができてよかった…。
育成会。準備していたことを語っているうちに言葉がばらばらになりました。全部語ろうとして力が入るということは、そのことが私にとってまだ途中の状態だからだと思います。 最後の方でノーベル賞受賞者・益川さんの新聞記事を語った自分を材料にして何を言いたかったのかを確認しているうちに、人が成長する姿を拝見したいと思っていることに気付きました。私は今まで6年間心の作業を続けてきたのだから、癒えた分だけ語る材料を持っていることは当然。そして傷ついた自分も残っているから右往左往する時がある。そんな私は他者が成長される姿を拝見したいと思っている。このように感じるのは、自分がしてきたことの確認につながるからのように思います。それに、ある人の心が成長する瞬間に立ち会うことが出来る空間は、一般社会では経験できないことだと思いました。
私は3月の末からずっと、ある一面において、そこから落ちていかないようにあれこれ試行錯誤していました。そのことが今日、少し解決しました。安心したと同時に、1ヶ月以上その面において頑張っていた自分に気付き、力が抜けて「頑張らせてごめんね。そして、そうするしかなかったのだよね」と自分を保護しました。「もっと楽になってもいい」と心にストロークを送ると心から安心しました。どんな時も、私を守ってあげられるのは私自身だと実感します。 そのためにはいつも、能力のリストです。
「もう一つ丁寧にしよう」を意識してみたら、もっと丁寧に出来るところを発見することが出来ました。今出来ていることはそうなるように意識した結果出来るようになったことですから、それらは現在の能力として自分に染み込ませて、次の一つが出来る自分になれるよう意識して、いつも少し先に小さな目標を見ておくといいようです。 もっと能力のリストを意識して、楽しく出来るようにしていきましょう。私は心の傷が小さくなった分だけ今よりも更に本作りを楽しむことができるのです。
月日は4月の半ばになり、私のしていることはどれだけになったかなあ?と出来たファイルを見て、動いた分ぶんだけ出来ていると思いました。
雨の一日。たくさん振りましたが、ベトナムに居た時と違って雨漏りしませんから、どれだけ振っても大丈夫です。外には出なかったけれど、昨日はプールに行きましたし、四日前から毎朝スクワットをしているので、運動面でも大丈夫。自分を健康に導くのは私自身です。 今日もいろいろな自分に気付いて不思議な楽さを味わっています。真の心の軽さは自分が空に浮いてしまうような感覚を味あわせてくれます。私は健康に長生きできるよう「楽の感覚」を持続させられるよう意識すると、もっと楽になります。そのためには能力のリストを染み込ませることが大切なのです。
私は新しい思考で物を書くということを覚えました。それは、文法や言葉の使い方が分かるようになるのとは別の世界の楽しみです。今までとは違う視野を使っている感覚を全身に染み込ませています。
昼に、栄にある丸善へ地下鉄で行きました。地下道を目的の出口を目指して歩いたら違うところに出て、もう一度潜って探しましたが、2回目も出たいところに出られませんでした。迷路で遊んでいるようでした。 地上ではいろんなファッションの人が歩いていて左右のお店には珍しいものが並んでいて面白かったです。 一日を終えてみると、今日もいろいろな自分に気付いて不思議な気持ち。ありのままに生きている自分は楽ちん。ゆったりの気持ちで書いた日記は後で読んでもゆったりします。
私は今、これまで最も自分を丁寧に見ようとして生きているように感じています。その私の周りには自分に丁寧な人が自然に集まると思います。私の周りに、自分にやさしい人が自然に集まるということは、危険な人は自然に違うところに移動してくれるのかな?解らないけれど、私は自分に丁寧にすることを続けていたら大丈夫です。 私は花や海などの自然に触れた時、自分の中から自然の感覚が湧き出てくるのが解ります。その感覚は、もともと私の中にあったものですし、私は、人は本来やさしさを持って生まれていると思っています。それに、人は自分以外の事物に触れる時、何かの刺激を受けているでしょう。私はこれからも、自然のようにやさしさを引き出しあうものに触れていたい。太陽のようにいつも同じ〈愛〉を持って生きたい。それには、自分のやさしさを大切に出来る大人に育つこと。何があっても自分に愛を注ぐことです。 北警察署近く黒川沿いの桜並木
最近、自分の変化を楽しんでいます。本のことも心のことも、お金や社会の基準とは違う世界の体験をしているなぁと思います。長い将来、どこでも役に立つ、私の心の財産になります。人生が豊かになる気がします。
お昼に、印刷した文章を持って公園へ行きお弁当を食べながら読み返しました。自然の風とお日さまの下、文章を心で読むことを意識しました。 私は今文章を作るということを勉強しています。何かを学ぶ時には自分の考えを一旦降ろしてからそのことと向き合うのがいいです。 夕方、心がホッとする発見をしました。ありのままを認めると、ありのままの自分を発見します。私は素朴に生きるとき、楽です。
ニャチャンの海岸 2009年1月
昼間、コインランドリーへ向かって出掛けたら、桜並木のサクラの花びらが風に揺られて地面に舞い降りていました。花びらは太陽に反射して、そのきれいなこと。急いで木の下まで行って、花吹雪を浴びました。毎日お風呂の帰りに夜桜を楽しめます。 名鉄瀬戸線高架下の桜並木
私が他者の言葉に巻き込まれる原因の一つは境界線の問題でした。いつも同じですが、新しい発見をするたびにチャイルドを癒すことが出来て、心が楽になって嬉しいです。私はもっと素直になりたい。なりたい私になれるよう、今日も明日も能力のリスト。 夜は嬉しいことがありました。日本に帰ってきてから今日までの中で、一番嬉しかったことかなぁ? 私は自分のプラスを大切にします。それが「なりたい自分になるための方法」なのです。
今日は気温が高かったので、グローブを持って公園へ運動をしに行きました。久しぶりなので、最初は投げたいところに球が飛んでくれなくて「下手だなぁ」と思いました。「どうしたらいいのだったかなあ?」を思い出しながら遊びました。命中率は0.5パーセントくらいでしたが、気持ちよかった。体と頭を同じくらいの比率で使いたい、というのが私の理想です。
この頃、朝のラジオ体操のあと、ベトナムから持って帰った ボンカウ という遊びを練習しています。これは羽根突きの羽のようなものを足で蹴り上げて…一人でする時は、サッカーボールで一人遊びするような感じ。腹筋を使う運動です。真上に上げるのが難しいのですが、この頃やっと2回続けて蹴り上げられるようになりました。 作業は、休憩を除いて10時間くらいしています。朝が早いので10時間出来るのだと思いますが、こんなにして、いいのかなぁ?解りませんからイヤになったら止めることにします。ちなみに、今日は今までで一番、校正の作業を楽しんだ日でした。 夕方、新しく買った圧力鍋でご飯を炊いてみました。沸騰して5分で火を消して10分蒸らして蓋を開けたら…本当にご飯が炊けていて、感動しました。 便利なものがありますねぇ。時間の面でも経済的な面でも、今の私にはいい道具です。
2009年04月04日(土) |
出来るようになるために |
育成会。前回は「いいことを語ろう」とする思考が働いていたので、今日は「自然に語ること」を意識して会場へ向かいました。それと、私は語尾を上げる癖があるようなので「語尾が自然に終わるように」も意識しました。 前回からの2週間を振り返ってみれば毎日新しい発見があり、それが新しい能力にもなりました。自分が自然でいられる時には目に映るすべてのものを自然に受け入れられるのですね。そして、私は自分が緩むとまとまらないまま語ってしまいがち。少し成長してもなお、出来るようになるところがあるのです。 私は頭でまとめたことを自然に語れる大人に、自分の言葉を大切にしてやさしく語れる大人になりたい。どちらもただ今練習中です。お口はいつも私にくっついているので、どこに居てもどなたとも練習できます。あとは、自分にやさしい心をいつも持っているように意識するといいのだなぁと、最後はいつも同じところに行き着きます。
おかしいなぁ。まだ空回りしてる感じ。毎日8時間してるのに、していることのどこが実になっているのか解らない。 あとで、自分が焦っていることに気付きました。 原因を探したら、又、がんばる自分を発見しました。それにそのチャイルドを癒やそうとしたら、予想外の場面からチャイルドが出てきて 「こんなところからがんばる自分が発生していたんだ!」 と、自分のことなのに感心。…感心してもいいけれど、今はすぐに次のことをしましょう。 ただし、頑張らなくてもいいんだよ…。なんまってね。私は人生をより楽に生きるために、今のことをしているのだから。
昼に、散歩を兼ねて灯油を買いに行きました。灯油は10リッターだけ入れてもらって休憩しながら持って帰ります。この買い物スタイルは今日で2回目ですが、灯油って手で持って帰れるものだったのですねぇ。私は今までどの位置で生活していたのかしらと、自分の基準を反省しました。 作業は昨日の続きをしました。人格引き出しのうち大きな人物3人分が済んでちょっと安心。導入と癒やしの作業と楽になってから後の動きを入れてみたら成長の度合いが解りやすくなりました。と、作っている本人は思っています。読む人にもわかりやすく出来ていればいいのですが…。校正が数回必要だと思います。作業は楽しく進み、ページ数は194ページまで増えました。明日もたぶん増えるでしょう。 今“案”を探しているのは、過去の文章と壁が薄くなった時の文章を書き分ける方法です。私の場合は傷が癒えたところから壁が薄くなっているので「この日から先は優合しています」とは違っています。その状態が解るのは私ですが、それを他者がわかるようにするには…。今のところ文章の文字サイズを小さくして使い分けていますが、これで説明を入れれば大丈夫かなぁ…。きっと、進めているうちに浮かんでくるのでしょう。
1週間前くらい前から浮かび始めた「本の全体像」は、 子どもの誕生をきっかけに自分が苦しくなった。友人・育児書・宗教・ある団体を頼ったけれど、うつ になった。病院・民間療法・Web を経て AC を知った。でもどうすれば楽になるのか方法がわからない。そして本『インナーチャイルド』に出会い、やっと心の傷を癒やせるようになった。 自分の心を開いてみたら「複数」がわかった。その人格はこれら27人(出せる分だけ)。それぞれの人格は、自分の心の傷に気付いて癒やしの作業をしたり成長した人格。怒って引っ込んだままの人格。優合したと感じられる人格…それぞれ、まだ途中の段階。残っている人格もある。 そのうち、Kyokoの人格は仕事の中でいろいろ考え成長した記録がある。看護師を楽しめるようになり、私も原体験をした。(これは記録があるので、私を知らない人が読んでも伝わるだろう。伝わるといいな) 感覚がなく怒りを抱えていた人格は感覚を感じられるようになり、その分ソフトになった。 苦しみの始まりになる子育ての中で苦しんでいた人格がどうなったのか?は、私・Mamoが心の傷を癒やし楽になるにつれ、子どもという存在に興味を持ち、家を出て4年後に保育園という場所で自分を試し働いて感じたことを書く。保育園で働いたのは私・Mamoだけど「過去とは全く違う見方で子どもというものを見ることが出来るようになっている」優合している部分もあるとも言える。心の傷を癒やし自分を愛することができるようになった分だけそうなっている。←ここは読む人にどこまでイメージしていただけるのかわからないし、読む人がイメージ出来るようにするために、どう書くか?はこれから湧いてくる予定。そして、最後に子ども達から手紙が来て、新しい母としての練習を始めたばかり…これから癒やしの作業は続く…。 という流れでした。 でも今日、出だしの部分にしていた70ページ分の文章が使えないということになり、この全体像でページ数を計算して他の部分を削除してコツコツ校正を進めてきたことを思うと、はぁ〜と落ち込み。 ま、今までも何とかなってきたのだから、これからも何とかなるでしょう。
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