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Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
「帆船時代の航海術」Salty Friends講演会

旧海星ボランティアの方が中心となり、セイルトレーニングなどより多くの人々が海や船に親しむような環境作りを目指しているSalty Friends、この主催の講演会が、12月2日(日)に船の科学館で開かれます。

タイトルは、そのものずばりの 「帆船時代の航海術」
元日本郵船船長の大河原明徳氏をむかえ、
帆船の航海術について、当時の船乗り達の生活や航海器具の話題をまじえ、
わかりやすくお話しいただけるとのこと、
海洋小説好きに、このチャンスを逃す手はありません。

私が個人的にちょっと期待しているのは、Salty Friendsスタッフの方による、この夏の地中海帆船レース・レポート。
舞台となったのは、バルセロナからツーロンまでというのですから、まさにそのむかし彼らが航海していた海ですね。
ジャックには思い出のメノルカ島に、それから、ふふふ〜、リオン湾ですよ、激闘リオン湾。


■開催日時:
 平成19年12月2日(日)午後1時半より(開場1時)
     
 第1部「帆船時代の航海術」 
    ◇元日本郵船船長 大河原明徳(おおがわらあきのり)氏
 第2部「チリ海軍練習帆船エスメラルダ見学会レポート
    ◇ソルティフレンズ スタッフ Qたろー
    ◇ゲスト:ヨット雑誌「KAZI」編集者安藤健氏
 第3部「地中海帆船レースMed 2007参加レポート」
    ◇ソルティフレンズ スタッフ Qたろー

■開催場所
  船の科学館 “羊蹄丸”アドミラルホール(新橋駅より新交通「ゆりかもめ」17分)

■参加費用
  無料(定員80名)

■申し込み
 Salty Friendsホームページ http://saltyfriends.com より
 stbd@saltyfriends.com「SF講演会係」までメールでお申し込み下さい。
 お名前(グループの場合は全員の方のお名前も)ご住所、ご連絡先を忘れずに
 事前申し込みが必要です。

■申込締切
 11月25日(日)必着。

詳細は上記Salty Friends ホームページを、ご参照ください。


2007年11月23日(金)
21世紀の19世紀のファッション

今朝の通勤電車で前の席に座っていた茶髪の若者が、ミリタリー・ジャケットでした。
と言っても現代の米軍ではなく、19世紀の…英国海軍の海尉の航海用ジャケットの色違い…紺に金ボタンではなく、黒に銀ボタンで銀の縁取りというデザイン。
いや女性向けのオールドミリタリーっぽいジャケットがここ1〜2年流行だったのは知ってましたが、メンズは初めて見たわ…っていうかまぁ私が、おシャレな若者の集まる渋谷とか滅多に行かないからでしょうけど。

へぇ〜、メンズもあるんですか。でもこのデザインなら芸能人対象ではなく「ちょっとオシャレ」レベルなので、普通の人でも十分休日用ジャケットとして使えるでしょう。まぁ背広通勤には合わないでしょうけど…このお兄ちゃんは事務職ではないようだが、学生さんかな?
とりたててハンサムさんではなかったけれど、おばさんには十分に目の保養でしたわ(服がね…ごめん)。

そういえば今年って膝上丈のブーツも出てるんですよね。
スリムなお姉さんが、チュニックにぴったりのレギンスで膝上ブーツ…うわっ、決まってる!…というのもJR中央線で目撃しました。
でもこのブーツ、ピンヒールなのね、ニーハイ・ブーツがピンヒールってなんか違和感だけど。

ニーハイ・ブーツと言えば、(私的には)伊達男の陸軍将校と相場が決まっていて、
馬に乗り降りしやすいように、工夫がされていて、そのまんま決闘もしちゃいますから踵もがっちり、
ショーン・ビーンのシャープとかが、ガッガッガッと大股で歩いていくイメージが染みついちゃってたり、
ピンヒールなんて言語道断(笑)。

でも昔の海軍風ジャケットとちがって、膝上ブーツは現代のフツーの男性には履けませんね。
ウェスタン・ブーツはあっても男性用膝上ブーツは、さすがに市販されていないような。

最近つくづく「まずいかも」と思うのは、「ときどき自分の標準が200年前になっている」ことで、
150年前の咸臨丸を見て、ついつい「新しいですねぇ」と言ってしまう私…いやその、200年前から見れば、50年後の咸臨丸はいろいろな点が発展して便利になっていて、「すごく新しい」と思ってしまうんですよ。

だいじょうぶかしら?私。
あなたは2007年に生きてるんですからね、いちおう21世紀の人なんですからね…と自分に確認。


2007年11月22日(木)
KOBE帆船フェスタ2007

この次の週末に当たる3連休、神戸では開港140年記念の帆船フェスタが開催されます。
日本丸、海王丸同時展帆だそうです。
うらやましい。

詳細は下記をご参照ください。

KOBE帆船フェスタ2007 2007年11月23日〜25日
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/39/port/kankou/hansenfesta.html

情報ありがとうございました。


2007年11月17日(土)
咸臨丸建造150周年記念講演会

10日の土曜日は、船の科学館に咸臨丸建造150年の記念講演会を聴講に行きました。
咸臨丸は1860年に、日米修交通商条約批准のため、使節をのせて日本で初めて太平洋を横断した船として有名。
この記念講演会は洋学史研究会、船の科学館の共催、ということで、会場には歴史が専門の方、船が専門の方の他に、咸臨丸子孫の会の方も見えていらして、多ジャンルの専門家集合といった趣でした。

前の席に座っていらした子孫の会の方とお話をする機会があったのですが、「今日は勝さん(勝海舟艦長役)も木村摂津守(遣米使節副使)もご子孫が見えてますよ」とのこと。
さすが100年ちょっと前の近代史ですね。
イギリスもトラファルガー200年の年に、海戦に参加した士官だけではなく全ての水兵のデータベースを作成する試みがなされていたようですが、日本にもこのような形で歴史上有名な船について、乗組員子孫の会があるというのは素敵なことだと思いました。

船の科学館では咸臨丸建造から150年目に当たる今年、「船の科学館資料ガイド7:咸臨丸」という資料冊子を発刊していますが、
今回の講演会ではこの冊子の編集に尽力された、海事史学会の元綱数道先生と、洋学史研究会の片桐一男先生から、原資料を目の前に、まさに歴史研究の現場のお話を伺うことができました。

むかし日本史学科の学生だった身としては、学生時代に講義を受けているような、懐かしい空気の中に帰った感があり、
また、何といいますか…ナポレオン戦争時代の英国艦というのは、所詮異国船ではあるわけで、いくら小説を通し親しく長年お付き合いしてきても、どこか「海の向こうの世界」の話の部分があるんですけど、咸臨丸はやはり日本の艦で、目の前にご子孫の方もおられるわけですから、近さが違います。

いま異国船と書きましたが、「異国船」と「外国船」ってどう違うかご存じでしょうか?
いえ私も、昨日の講演会で初めて知ったんですけど、鎖国時代の長崎では、この二つには歴とした差があったんだそうですよ。
外国船は蘭船と唐船、すなわちオランダと中国の船のこと。
異国船はそれ以外の外国の船のことだそうです。
…ですから「異国船打払令」は、オランダと中国には適用されないということで、
(この場合朝鮮の扱いはどうなるのでしょうね? 対馬経由で来航するので、長崎には入港しないということなんでしょうか?)

さて昨日見せていただいた資料の中でも、帆船好きな方に最大の興味と言えば、
オランダに残されていた咸臨丸の船体構造図、蒸気推進機関諸図、勝家に仕えていた方が保存されていた咸臨丸のリギンプラン等々、
咸臨丸は江戸幕府がオランダのキンメルダイク造船所(現在のIHCオランダ社)に発注した、オランダ生まれの軍艦ですが、同じ造船所で翌々年に建造されたオランダ海軍の同型艦BALIの船体線図、縦断面図、横断面図、甲板図なども原寸コピー(オランダに今も保管されている図を青焼きしたもの)で目にすることができました。

講演会の内容については、その大部分が上でご紹介した船の科学館発行の冊子にも詳細に記されていますので、それをご参照いただくとして、こぼれ話的なもので大変面白かったのは、オランダの度量衡。

イギリスの船体線図は、縮尺が統一されているもののようですが、オランダの図面は統一があるわけではない、図面ごとに異なる縮尺が記されており、それに従って計算しなおさなければならない。
オランダの度量衡は独自のもので、英米で広く使用されていたヤードポンドとは異なっていたが、咸臨丸の太平洋横断に際し、同乗したアメリカ海軍士官のブルックは、これを米国流に解釈していたらしく、実は実寸とは異なっていた…のだそうです。

それどころか、洋学史研究会の先生によれば、オランダの薬の調合量(度量衡)も、オランダの各都市や植民地で微妙に単位が異なり、日本に伝わった薬剤の度量衡は実はバタヴィア(オランダ領インドネシア)のもの、薬の多量服用や配合間違いはしばしば命にかかわることもあったため、このてんでばらばらの度量衡は実際にかなりの悲劇を生み出したのだとか。

いや150年前だからそんなもの…という考え方もあるかもしれませんが、正午に天測、きっちり計算…の200年前の英国海軍に慣れていると、え?そんなことあっていいの?と驚きもしたり…あぁでもどっかの艦でもありましたっけ?時計を壊して経度が違って座礁とかいう事件。

ともあれ昨日は、たいへん面白い有意義な時間を過ごすことができました。
海の歴史と伝統が生き続けているイギリスでは、現代のイギリス人でも容易に過去とつながることができますが(例えばプロムス・コンサートのラストナイトで海の唄を歌って盛り上がるように)、日本でも探せば、帆船時代の昔につながる道があるのだということが、なんとなく嬉しかった昨日でした。


2007年11月11日(日)
船の科学館で咸臨丸洋事史研究会

今年は咸臨丸建造150年に当たるそうで、今度の土曜日に船の科学館で記念研究大会が開催されます。

テーマは「“咸臨丸”建造150年をふりかえる」
会員でなくても参加・聴講可能とのことです。詳細は船の科学館にお問い合わせください。

開催日時:平成19年11月10日(土曜日)
       13時 受付開始
       13時30分 開会
開催場所:船の科学館 羊蹄丸 アドミラルホール

 嵜淕未ら読み解く“咸臨丸”」 13時50分〜14時40分
  元綱数道氏(日本海事史学会会員)
◆屐頒臨丸”発注、回航、働きなど」 14時50分〜15時40分
  片桐一男氏(青山学院大学名誉教授)

問合せ先:船の科学館学芸部 担当;小堀さん TEL03-5500-1113


2007年11月07日(水)
バルト海の入口エーレ海峡

バルト海の入口、デンマーク、スウェーデン二国の間を抜ける、バルト海入口の海峡は、近年大きく様変わりしました。

この海峡、Oresundという名前なのですが、このOは、斜めに/の入ったO(ゼロとOを区別するためにゼロに斜め線を入れますが、あのような感じ)、原語では「オ」と「エ」の中間のような発音をするようです。
おかげで「Ore」の日本語訳には「オーレ」と「エーレ」が混在しています。
「sund」は英語の「sound」と同じ語源で、「海峡」という意味なのですが、これまで訳してしまい「エレソン海峡」とした新聞を以前に見たことがあります。それって「エレ海峡海峡」になってしまいますって。
定訳がないので、とりあえずここでは、エーレ海峡としておきます。

エーレ海峡がスポットライトを浴びたのは、2000年7月。
この海峡に、橋とトンネルを組み合わせたデンマーク・スウェーデン横断道路が開通しました。
東京湾横断道路のように、デンマーク側がトンネル、海峡中央サルトホルム島の南部に人口島を造成して、ここから先スウェーデンの対岸マルメまでが橋梁となります。
橋の高さは、横浜ベイブリッジよりちょっと高いので、クイーンエリザベス号も通過できますし、デンマーク側も、埋立と同時に航路浚渫が進み、コペンハーゲン海戦の時のような浅瀬の危険も無いようです。
もっともこの海峡がバルト海海軍戦略の要所である事情は変わらず、海峡横断道路の建設にあたっては「空母がいかに通過できるか」が問題になったようですが。

私がコペンハーゲンを旅行したのは、このエーレ海峡横断道路の建設前でした。
というわけでかなり昔の写真になりますが、ご紹介してしまいましょう。
横断道がない昔ってことで、かえって景色的には19世紀初頭に少し近いでしょうか?

ホーンブロワーは行く手のサルトホルムとアマガーのことを考えていた。あそこを通過する時が最大の危機だろう。
幸いなことにサルトホルム島は平べったいので、砲台は海峡を見下ろす位置が低く、あまり威力がない。

《サルトホルム島》


コペンハーゲンのカストロップ空港に着陸直前の旅客機の窓から。
コペンハーゲンに着陸する飛行機に乗る時は、窓際席をおすすめします。エーレ海峡がばっちり眼下です。
この写真でも海峡の狭さがわかりますよね。
でもこのサルトホルム島、そういうわけで今は着陸間近の旅客機が低空で頭上を通過するので、スティーブンの愛するケワタガモはみられないかも。

ジャックがまだそこにいるとき、スティーブンが、彼にしては珍しく早い時間に姿を現した。…(中略)…
「それよりもきみをもっと喜ばせるものを見せてあげよう。あそこに緑色の屋根とテラスが見えるかい?あれがハムレットの舞台となった城だ。エルシノアの町だよ」
「エルシノアだって? あれが正真正銘のハムレットの城かい? それは凄いな。感激だ。堂々たる大建築物じゃないか。畏敬の念なしには見られない。想像上のものだとばかり思っていたのに」

《クロンボー城とエーレ海峡出口:北をのぞむ》



コペンハーゲンから1時間ほど、観光客なら必ず訪れるハムレットの城クロンボー城。
城内のみではなく、窓の外を見ると、沖の艦船には脅威だった砲台跡。
Helsingerは原語読みではヘルシンゲルですが、英国にはエルシノアという読みで伝わっていたようですね。
《ヘルシンゲル(エルシノア):クロンボー城》



ヘルシンゲルからは対岸スウェーデンのヘルシンボー(ヘルシングボリ)が手にとるように見えます。
スティーブンは「お早う、ジャック」と言ってから周囲を見回した。「ひゃあ、思っていたよりさらに狭いな」
本当に狭かった。
左舷側の陸岸には明るい陽差しを浴びて歩いているスウェーデン人の姿がはっきり見て取れるし、右舷側の陸岸にはデンマーク人の姿が見てとれる。両岸の感覚は3マイルしかなく、エーリエル号はその真ん中、どちらかと言えばスウェーデン側に近い海面をゆったりした速度で這うように南へ進んでいる。

《対岸のスウェーデン:ヘルシンボー》



クロンボー城はデンマーク観光の定番ですが、時間があったら是非、城の横の港からフェリーで対岸に渡ってみてください。
20分でスウェーデンです。彼らの航海した海を、あなたも手軽に渡ることが可能なのですから。


2007年11月04日(日)
バルト海とナポレオン戦争(2)1807年

さて1807年です。
コペンハーゲンの海戦からの6年間に、ヨーロッパ大陸の情勢は大きく変化していました。

オーストリア、プロシア、ロシアと言ったヨーロッパの大国は、イギリスとともに、対仏大同盟を結んでナポレオンのフランス軍に対抗しようとしますが、
アウテルリッツの戦い(1805)、イエナの戦い(1806)、と負け続け、1806年秋にフランス軍はついにプロシアの首都ベルリンに入城、都を負われたプロシア王は、都をケーニヒスブルグ(現カリーニングラード)に移し、フランスとプロシアの戦場は、ダンツィヒ(現グダニスク)等バルト海沿岸にも及んでいきました。

デンマークも、もはや中立とは言っておられず、イギリス対フランスの綱引きの矢面に立たされることに。
プロシア軍さえ撃破するナポレオン軍に抗するすべは、実際のところデンマークにはありませんでした。

しかしイギリスにとしては、このままデンマークのフランスへの降伏を許すことはできません。装備・人員とも優れたデンマーク海軍がまるごとフランス軍の手に落ちれば、1805年のトラファルガー海戦で徹底的に潰した筈のフランスの海軍力が、再び脅威となるのです。

アンソニー・フォレストの「バランス・オブ・デンジャー」は、この当時のヨーロッパ、とくに大陸の情勢を丹念に描いています。
主人公のジョン・バルクール・ジャスティスは、勅任艦長名簿に載りながら指揮艦を持たない、表向きは半額給の休職艦長ですが、実は海軍省の諜報機関の一員。母がフランス人で、子供時代にでブーローニュで育ったジャスティスは、ネイティブののフランス語を話し、十分フランス人として通ります。
この諜報機関は、商船保険の元締めロイド保険協会と密接に結びついて世界各国の情報を得ており、ジャスティスはロイドの連絡員を装って、1807年、ナポレオン占領下のオランダに潜入します。

そこで得た秘密文書から、デンマーク国内に、同国艦隊のフランスへの引渡しを手引きする者がいることに気づき、ジャスティスはこの陰謀を追って、アントワープからハンブルグに入ります。
ハンブルグはこの時期(1807年初夏)には既に、ライン連邦の一員としてフランスの支配地域でした。
フランスはデンマークの国境線に迫ります。

この時期のデンマークを描いたもう一つの作品が、アレクサンダー・ケントの「最後の勝利者」。
主人公のリチャード・ボライソー中将は、デンマークを“説得”すべく、外交特使のサー・チャールズ・インスキップとともに、コペンハーゲンを訪れます。
もっともインスキップいわく、「一方には約束の書面が、もう一方には威嚇の書面が入っている」特使なのですが、

一方、ハンブルグから国境を越えてデンマークへ潜入したジャスティスは、コペンハーゲンで様々なデンマーク人に接触します。
イギリス軍の攻撃を回避するため、妥協すべきだと考える者、この国の生き残りのため、フランスと手を結ぶ道を探る者、

当時のコペンハーゲンは、船乗りの誰もが認める、美しい海の都でした。
余談ですが、ダドリ・ポープのラミジシリーズの8巻「裏切りの証明」に、海の都談義というのが出てくるのですが、これによると、当時のヨーロッパで最も美しい海の都はベネチア、次がコペンハーゲンで、3位がリスボンなのだとか。

けれどもついに、業を煮やしたイギリス政府は、コペンハーゲンへの攻撃を決意、ギャンビア提督の艦隊とウェルズリー少将(後のウェリントン公)指揮下の陸軍3万がデンマークへ派遣されることになりました。
「最後の勝利者」では、ボライソー自身はギャンビア提督麾下の本隊に、トマス・ヘリックが陸軍派遣部隊の輸送船団護衛に当たることになります。

コペンハーゲンにイギリス軍侵攻が迫ります。この美しい街への攻撃を何とか回避しようと、ジャスティスはデンマーク国内で奔走しますが…、

「バランス・オブ・デンジャー」という小説の優れた点は、イギリス人の書いた小説でありながら、デンマーク側の視点・価値観、デンマーク側の登場人物がきちんと描かれていることでしょう。
かつては北欧の大国だったデンマーク、中立をかかげながら1801年のコペンハーゲン海戦で、強引にイギリスの武力で中立を踏みにじられた。
フランス、イギリスの圧倒的軍事力の前に、屈服を余儀なくされるであろう状況にありながら、なおかつデンマークという国とデンマーク人の誇りを守ろうとするデンマーク側の登場人物たち。
彼らと個人的には友情や信頼を築き上げ、彼らの立場をよく理解しながらも、イギリス海軍の軍人であり工作員である限り、敵対する立場をとらざるをえないジャスティスの、個人としての苦渋。

けれどもついに、イギリスはコペンハーゲン攻撃に踏み切ります。
ベネチアに告ぐ海の都と評されたコペンハーゲンは、沖合から次々と撃ち込まれた砲弾で炎上、市の北側には陸軍が上陸、直接攻撃を開始しました。
炎上するコペンハーゲンの街に戻ったジャスティスが見たのは、絶望的な状況の下それでも国の誇りを守ろうとするデンマーク人たちの姿でした。

1807年のコペンハーゲンを描いた作品は、「バランス・オブ・デンジャー」も「最後の勝利者」も、後味の悪い終わりになっています。
ジャスティスもボライソーも、この戦いを栄光とともに語られるものとは考えていない――もしデンマーク側が長期の攻囲戦に頑として抵抗をつづけるならば、緑色の尖塔が立ち並ぶあの美しい都市は廃墟と化してしまうだろう。それは不当なことに思える。デンマーク人は善良な人々で、ただ干渉されないことを望んでいるだけなのだ。だがほかに道はないのだ。それならそれで仕方があるまい。「最後の勝利者」

それがあの戦いに対する、当時のイギリス人たちの価値観であり、
そしてその戦いの結果、主人公たちは何の栄光もえられず、ただむ虚しさのみを知る。
…これが現代のイギリス人作家たちの、あの時代のイギリスへの評価なのだと思います。
この戦いを描く以上、栄光に満ちたハッピーエンドを描くことはできないのでしょう。

結局、デンマークはイギリスに降伏、デンマーク艦隊はイギリスへ引渡し、もしくは破壊されました。
身を守る術を失ったデンマークにはその後、フランスと同盟を結ぶよりほか道はなく、それはデンマークに更なる打撃をもたらします。
海外領土はイギリスに占領され、本国は海上封鎖を受けてノルウェーとの連絡も困難となり、その隙を突いたスウェーデンに、ノルウェーを奪われました。
一連のナポレオン戦争でデンマークは、艦隊も海上貿易もノルウェーの領土も、全てを失ってしまったのです。

アレクサンダー・ケントの「最後の勝利者」という題名は、この小説の最終章の最後のセリフから来ています。
「死神こそが最後の勝利者」
ヨーロッパの各地で途切れることなく戦争が続いた1807年、
この年の戦争によって獲得された領土の多くは、1815年のウィーン会議で無に帰しました。ケントの言う通り、死神のみが最後に笑う1807年だったのかもしれません。


2007年11月03日(土)