umityanの日記
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2014年06月16日(月) |
そろそろ「ノアの箱舟」が必要か? |
梅雨に入っているのに、一向に雨が降らない。これはどうしたわけだ?。日本列島の各地では未だかってない豪雨と暑さに見舞われている。異常気象と言って久しいが、もはや異常気象という言葉でかたづけられる問題ではないだろう。地球の末期的症状。そんな気さえする。なにか打つ手はないものだろうか?。そろそろ、「ノアの箱舟」が必要か??
そんな気象とは裏腹に、昨今、サッカーのワールドシリーズが世界中を賑わしている。スポーッの取り持つ縁はたいしたものだ。人々の心が一つになり、勝っても負けても惜しみなく声援が贈られる。こういう風景はいいものだ。 願わくば勝って、さらなる兜の緒を締めてほしいものだが、いつも柳の下にドジョウはいない。だから人生もスポーッも面白いのだろう。新たなる闘志と勇気が湧いてくる。
最近、気になることと言えば、気象も、いろんな事件もさることながら、やはりスタップ細胞の存在だろう。僕は「ある」と信じている。さらなる研究が進み、実証されることを切に願いたい。世間が色々と騒がしいが、そっと、行く先を見守っていこう。僕が億万長者なら、「小保方」さんに、「研究資金として自由に使って」と言いたいところだが、出来っこないことを言うのは止めよう。
先日は久しぶりに、ネズミ男君と雑草刈りをした。雑草君の成長の早いこと早いこと。雨が降らずとも、たくましいこと限りなしだ。僕ジャイアンと、ネズミ男君は、雑草君達に一瞥を投げ、「わおーーーーつ」と挟み撃ちにしてマシーンを振り回す。時々、歩みを緩め、マシーンで雑草の先々を伺う。なぜか?。蛇君の存在を確かめる必要があるからだ。僕たちは蛇君に、にらまれたら、もう駄目。身も心もすくんでしまう。めっぽう、苦手な存在なのだ。
と、言いながら、ネズミ男君が「へらくち」と言うのか「まむし」と言うのか、都会育ちの僕?には、よく分からないが、草刈りマシーーンで、それらしき蛇の頭を「ちょきーーーん」と切り取ったらしい。おおおー、怖っ。幸い、かまれなかったので良かったが、「おいらはもうごめんばい」と、それから極めて冷静沈着、慎重にマシーーンを、操っていたからおかしい。
僕、ジャイアンは「君子、危うきに近寄らず」で、もっぱら蛇がいそうにない所ばかりでマシーンを振り回した。ネズミ男君以上に臆病なるジャイアン。笑ってくだされ。
何ヶ月の空白があったのか?。見れば分かるが、あえて知りたくもない。激動の数ヶ月。こんなに忙しかったことは初めてだ。嬉しくもあり嬉しくもなし。日記を書く気には到底なれなかった。
やっと、一段落だ。世の中を眺めると、痛ましい事件が、なんと多いことか。日本のみならず世界中がそうだ。時々、人間とは何か?と考えることがある。思いつくのは、人間も他の動物たちと一緒で争いを好み、排他的であることだ。その理由は簡単。生きるためである。
人間は生きるために自然界の動植物を得ている。まあ、それは良いだろう。外界から食物を摂取しなければ生きられないからだ。ただ、問題は心だ。よこしまな人間の心は人間同士の争いを生み、痛ましい事件へと導く。なぜだ?。パスカルは言った。「人間jは考える葦である」と。他の動物たちと違い、人間は考える能力をもった。すばらしいことだ。と同時に、喜怒哀楽を覚えてしまった。
この喜怒哀楽が厄介なんだよなーー。その根源は心が生み出す「欲」。欲が正しく使われれば、幸になり得、間違って使われれば不幸を生み出す。欲は思考によって制御出来ると思うが、それが完全に制御できないのが人間。欲は欲を助長させ、際限なく広がっていく。悲しむべき人間。
かくして、宗教は「欲」を捨象すべく説いた。もちろん欲を皆無とすることは難しい。ただ欲も行き過ぎると必要悪となる。この兼ね合いが難しいんだよなあーー。
僕は最近、ネズミ男君や、のび太君に言っている。「金は生きていく上で、そこそこあって、死ぬまでに使い切っていこうや。墓場まではもっていけないぜ」。とかなんとか。問題はその「そこそこ」である。これは個人差があり、一様に語れない。
要は金は自己顕示欲のために使う物ではなく、人が幸せになるべく使うのが最善だろう。とかなんとか言いながら、僕たちとっちゃん坊や達は、幸せを求めて次なる旅の計画を立てている。これは 必要善なのか必要悪なのか?。行き交う人達が幸せになるなら、必要善だ。
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