umityanの日記
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2010年09月26日(日) |
思考回路がめちゃめちゃだ。 |
九月最後の日曜日。いつもと同じように時が過ぎた。午前・午後にかけて仕事をこなし、その後、生ゴミの処分と、大きく掘った穴の中で不要ゴミを焼却処分にした。近隣の民家とは家がへだたっているので、迷惑を掛ける心配はない。
思うに21世紀はゴミと戦う世紀になりそうだ。「ゴミを征した者が世界を征する」。これはあながち嘘ではないだろう。そのうち、科学文明がゴミのない世界を築いてくれるだろう。(楽観的思考)
如何せん。そのとき我が身は既に宇宙のゴミとなっている。今はあくせく、ゴミと戦うしかない。てなわけで、日々、ゴミ処理にいそしんでいるのであります。ゴミチャンどこにいるの?・・・どこにいるの?。
そうこうしているとき、携帯電話なるものが僕を呼んだ。誰かと思えば、のび太君(仕事仲間で弟みたいな存在)だった。どうも11月の「とっちゃん坊や」達の旅行を危惧している模様。行き先が行き先だけに僕も同感だ。乗り気なのは、ネズミ男君だが、これも説得すれば同意を得るだろう。最終的にはリーダー、ドラえもん君が結論を下すことになる。多分、中止の公算が大きいだろう。となれば来年早々の旅立ちと言うことになるか?。
いずれにせよ、最近の世界情勢はきな臭い。「どうしてこうなってしまったの?」と考えてみた。思い当たることは、地球環境の変化。その最たるものが、地球温暖化だろう。温暖化の進行は人心にも影響を与えているような気がする。いらいら感が強くなり、気が短くなる。正しい判断が下せなくなる。欲が深くなる。他人のことを思いやる余裕がない。利己主義に走りやすい。挙げればいとまがない。
何だか自分も当たっているようだ。しからばどうしたら良いのか?。山に篭もって隠遁生活をしたらどうだろう?。それも無理だ。人が恋しくなる。1人で飲む酒はうまくない。やはり、喧々がくがくしながら、娑婆世界の中で、自己を律して生きていく以外に方法はなさそうだ。
「自己を律する」生き方とはとはどう生きることなのか?。分からない。桜の木に桜の花が咲くように、当たり前に、平凡に生きることなのか?。それができりゃーーー、苦労はしないんだが・・・・。
今、僕は大きなため息を一つついた。既に思考回路がめちゃくちゃだ。考えるのは止めよう。
2010年09月23日(木) |
今年も君は来てくれた。 |
今日は彼岸の中日。どんよりと曇った空。時折、小雨がぱらつく。暑くもなく寒くもなし。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものだ。家の周りの田んぼでは、たわわに実った稲穂が、風にそよいでいる。自然の醸し出す風景はなんと見事なものか。
最近、嬉しいことがあった。今年は駄目かなと思っていた月下美人が、七個の蕾をつけた。すくすくと成長している。月下美人は調子が良ければ、年に2〜3回は咲くという。ラストチャンスで蕾をつけたわけだ。嬉しいこと限りなし。
あまた花はあれど、この月下美人は僕にとって恋人みたいな存在。葉っぱ一枚から成長し、いまや僕の背丈を追い越すほどに支柱がのびた。細長い葉っぱから茎が伸び、蕾が出て、やがて、天女が純白のドレスをまとって舞い降りたがごとくの、大輪の花を咲かせる。また、オーディコロンならぬ、優美な香りを漂わせる。幾多の虫たちが、その香りを求めて殺到するが、「負けてはなるまい」と、虫たちをはね除け、僕の独り占めにする。僕も欲が深いぜ・・・。
人間の女性達は「これでもか」と言わんばかりに長寿を謳歌するが、月下美人は、その名のとおり、月の下で一夜限りの生を全うする。はかない命なのだ。だからこそ、精一杯の輝き見せるのだろう。そんな命がいとおしくないだろうか?。いや、限りなく、いとおしい。
開花するころ、僕はいまや開かんとする蕾の前に陣取り、寝ずの番をしながら、開花の瞬間を待つだろう。純白のドレスから放たれる香りが、僕の全身を包むだろう。まさに至福の時だ。「オーマイ スウィートハート」。今年も忘れずに会いに来てくれた君に、僕はそっと、口づけをするだろう。
朝起きて、日増しに成長していく君の姿を愛でるのが僕の日課だ。
「故郷は遠きにありて思ふもの。そして悲しく歌ふもの。よしや、うらぶれて異土の乞食となるとても、帰るところにあるまじや・・・・・」。
いやああ、故郷かぁーーー。遠くで思い、悲しく歌う。たとえ、貧乏していても帰るところではない。やはり、錦を飾って帰るところなのか?。
我が身はどうだ?。日々、労働に明け暮れ、汗水たらして稼いだ幾ばくかの金銭も、指の隙間からどんどん流れていく、「関節が太くなった手をじっと見る」のが関の山だ。故郷も遠くになりけりか?
とは言うものの、生来のおっちょこちょいで、能天気の風来坊。なりふり構わず帰ってしまうのが僕の性分。その心はいかに?。おっかさんのおっぱいが恋しいのか?。いや、そうではない。本当に?。もちろんだ。本当に?本当に?。うう・・・ん、ちと、恋しいか。ま、そういうことにしておこう。深く言及すべきことではない。心の問題だ。
故郷はいつも温かく僕を迎えてくれる。空気は昔のままだ。ちと、うるさいことと言えば近隣界隈だろう。「今、どこにおんなさっと?」、「何、しとんなさっと?」、「立派になんなさったねーーー」と、会う人ごとに聞いてくる。僕も、方言を交え、苦笑いしながら応える。いやあああーーー、これが疲れるのなんのって。田舎とはそういう所だ。この奇妙な連帯感は心地よくもあり、うっとうしくもあり。
空を見上げると、遠い昔の事がよみがえる。学校まで、てくてく通った道のり。土手道をOL風女性とすれ違う。僕はつばの長い学生帽を深々とかぶり、そっぽ向いて行き交わした。毎朝の習慣だった。それが時折、会わない日があった。そんな時、妙に寂しさを覚えた。これが思春期というやつか?。今思うと、おかしさがこみ上げてくる。そんな土手を歩いてみた。
我が故郷は海あり山ありの小さな温泉町。山には温泉神社があった、大学時代だったか?。友達から買い受けたトランペットを持参で、神社のさらに上の山腹に登り、「夜空のトランペット」とか「夕焼けのトランペット」とかいう曲を吹いて練習していたことがあった。下手な音色がどこまで届いていたか知らない。「あんたが吹いてんの?」と友人から聞かれた。
その後の事だ。小・中学校の同級生の女の子が僕の家を始め、同級生の家を訪問し、生け花をいけたり、掃除を手伝ったりで巡回しているという。その原因が僕のトランペットにあると友人が言う。まさか。僕の下手なペットの音色に彼女が翻弄されるはずもない。僕はそそくさと故郷を後にした。以来、ペットを吹くことを止めた。「神田川」という歌ではないが。「あなたの優しさが怖かった」からである。今、彼女がどうしているか知らない。
故郷はいろんな事を思い出させてくれる。父母、祖父母がいる。だから帰りたいのだ。ゆっくりと人生を振り返るには故郷が一番良い。そんな故郷が昨今、危機的状況にある。盆、正月の帰省現象は相変わらず続いているが、昔と違うところは、「のんびり感」がなくなった事だろう。あまりにせわしい感じがする。ゆっくりできない。文明化の流れは良き故郷を駆逐しつつある。昔ながらの近隣おっさん、おばさんもいなくなり、都会風田舎に様変わり。そんな田舎に、どんな魅力があるというのだ。
核家族化と叫ばれて久しいが、その弊害が今、あらわになった、高齢者の生存不明が20数万件あるという。祖父母や父母、はたまた故郷は一体、どこへ行ったのか?。今更、大家族的生活様式は取り戻せないが、少なくとも、父母、祖父母や先祖は心の故郷だ。いかなる社会になろうとも、その存在を忘れてはならないだろう。
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