umityanの日記
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2010年05月31日(月) 五月最後の声。

五月最後の声を聞いた。嬉しくもあり、嬉しくもなし。一体、どっちなんだ?。両方ということになるか。五月の思い出を書いておこう。

嬉しかったこと。その一つは五月中旬までの長いトンネルを抜けて、やっと、広い大空へ飛び出せたことである。なんのことはない。急がしかった仕事と世間のしがらみから解放されて、自由という自由を取り戻した。しばらくは全てが自分の裁量で、もの・こと・が運べる。これにまされる喜びはないだろう。

今日は心地よい薄曇り。朝起きて、朝顔たちに、ごはんをやった。気の早い朝顔の一つが、青空と同じ色の花を咲かせていた。手で触れてみたいと思ったが、「しつれいにあたるか」と、止めた。

その後、何をするかと考える。先日来、弟と共に刈り取った雑草が枯れ始めた。すかさず僕は思ったことよ。この雑草を焼けば、黒こげの更地となる。雨が降れば、黒こげの黒が消えて、雑種地から宅地へと早変わり。なかなかおもしろい。宅地が増えた感じだ。客が来たら、そこへ車を止めるだろう。「広くてよござんすね」と客は思うだろう。これも、努力のたまものだぜ。

それでも、これもつかの間の現象だ。地下に強い生命力を持っている雑草は、「そのくらいじゃーー、まだ甘うござんす」と、またたくまに緑の絨毯を敷き詰める。「甘うござんす」で思い出したが、今年のサラリーマン川柳の一席がじつにすばらしい。「仕分け人、妻に比べりゃ、まだ甘い」。大笑いだ。かくして、僕は雑草に向かって、にんまりだ。「鉄は熱いうちに打て」という。すでに、そこを見込んで対策は練ってある。火炎放射器用、灯油は満タンだぜ。いつでも一網打尽だ。

もう一つ、嬉しかったこと。三つ下の弟と、あいまみれたことだ。母親を故郷に残し、次男・三男が再会。弟、遠方から来たり。楽しからずやである。何故か、弟の事を思うと、放っておけない。昔、僕がしがない貧乏学生だった頃、母親共々、仕送りやら、なにやら、助けてくれたことがある。兄弟のあいだで恩返しではないが、弟が困っていたら助けてあげるのが当然だ。

そんな弟も我が家へ来ると、じっとしているのが嫌いで、僕を差し置いて、雑草がりにいそしむ。「ゆっくりしといて」と言うが、「いいんだ。いいんだ」と言い、機械音をとどろかせる。僕も重い腰をあげて、弟につきあう。弟が教えてくれたが、棒のようなビニールの歯で刈るのが安全らしい。金属歯だと、石ころや、コンクリートに当たって、怖い音を発し。また、石ころがはねやすい。その点、ビニールの歯だと、コンクリートに当たっても平気。なるほど。機械が二台あるから、一つは金属歯。もう一つはビニール歯。これでいこう。決まりだ。弟が帰った後、僕はもっぱらビニール歯党になった。

さらにもう一つ、嬉しいことをあげておこう。五月中旬以降、しばら放ったらかしにしても良い仕事が舞い込んでくるということ。これが有り難いんだよなあーー。しばらくため込んで、一気にやろう。明日から六月。集中的にやるには丁度良い季節である。

嬉しくないことは、嬉しくないから記するのは止めておこう。いつか記することもあるだろう。




2010年05月29日(土) 自由に生きるとは?。

からりと晴れ渡った五月の空。空が高い。鳥がチュンチュン鳴いている。風も無し。こんな日は心までが、すがすがしい。ただ、妙に肌寒く感じられるのが気がかりだ。この季節、昔は、もっと暑かったような気がする。去年の今頃、僕はどんな服装をしていたのだろうか?と、ふと思った。覚えていない。

おっと、今、「竿だけ」売りの、おばさんの声が、マイクから流れた。「竿だけー、竿だけー」と、美声さながら、おらんでいる。まさに、高い青空に舞い上がったヒバリのごとし。ちょっと、大げさかあーー。以前、購入したことがあったので、「今、間に合っています」って言いたいが、距離が遠い。

話が中断してしまった。多分、去年の今頃は短パンにTシャツという出で立ちだったかもしれない。そういうことにすると、今日の僕がそのスタイルだ。ただ一つ違う点と言えば、短パンの下にステテコをはいていることだろう。今ばやりのカラフルなステテコだ。このステテコが短パンからはみ出し、奇妙なバランス、いや、アンバランスを醸し出している。「ふうてんの寅さん」でも、ここまではすまい。そう、思って、はしゃいでいるのは僕だけか?。

従って、周りから叱責をかうのは必定。「そんな恰好で人前に出ないでください」と、怪訝な顔をされている。もち、僕だって、分かっている。客が来れば、「さっ」と、長ズボンを短パンの上からはくか、時間があれば、短パンを脱いで、長ズボンに着替える。そういうことを見込んでの、短パン、ステテコ作戦である。

とは言うものの、時には失態をさらす。そのままの姿で、玄関まで行くことがあるからだ。客と挨拶を交わし、すかさず僕は言う。「こんな恰好で済みません」と。それで、全てが解決だ。人間、どんなに体裁を繕おうと、所詮、「同じ穴のむじな」。皆、似たり寄ったりだろう。

だが、しかし、ばっと、常識というものがあるならば、それは必要だろう。さすがに僕も、女性客の場合には、短パン・ステテコの姿では応対しない。昨今、問題視されている「セクハラ」と、思われても仕方がないからだ。

夏目漱石が、「草枕」のなかで述べている。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

まさにその通りだ。常識ばかりで生きるのも窮屈、きわまりない。だから僕は時々、非常識になるわけだ。人がどう判断しようと、お構いなし。それくらいの自由はあっても良いだろう。これからも短パン・ステテコ作戦を実行しようと思う。冬になったら極力、「はだし」作戦で臨もう。来客がびっくりするだろう。「ええええつ、靴下はいていないんですか?」と。僕は応えるだろう。「ええ、これが趣味ですから」と。

そもそも、常識とは大方の人間が「右ならえ」でやっていること。「赤信号、皆で渡れば怖くない」。これだって、例としては良くないが、常識らしき範疇にはいるか?。一人で赤信号を渡れば、まさに非常識。社会的な規範は守らねばならないが、個人的には、常識にとらわれず、自由に生きたいものだ。住みにくい世の中であればこそ、自由を謳歌したい。












2010年05月26日(水) 「おまえは何者ぞ?」

今日も一日中曇り空。風やや強し。木の葉っぱが渦を巻いて各所に散在している。これを掃き寄せ、くずかごに「ポイ」と捨てるのは、僕の日課。くずかごが一杯になると、穴を掘った窪地まで運び、火炎放射器で一網打尽だ。庭がきれいになり、結構、運動にもなるから一石二鳥だ。ただ、掃き寄せても、また、風が木の葉を散らす。「いたちごっこだぜ」と思うが仕方がない。僕はまた木の葉を掃き寄せる。

ある、偉い坊さんが言っていたが、お釈迦様の教えを簡単な言葉で言うと、「何にもならないことを、ただひたすら一生懸命にすること」だそうだ。それを聞いたとき、単細胞な僕は思った。「なんにもならないこと」なら誰もする者はいないじゃん?って。

よくよく考えてみると、そこが「みそ」なんだよなあーーー。禅問答のなぞかけではないが、何にもならなくても、ひたすら何かをするって事は、無になる。空になることと同じ。まさに般若心経の世界なのかもしれない。

数年前だったか、駅中の本屋さんで、おもしろい本をみつけた。「生きて死ぬ」という本で、生命科学者の柳澤桂子さんが書かれたものである。内容は般若心経というお経を科学的に解説されたものだ。能天気で鈍感な僕には理解できる術もなかったが、後書きにすばらしいことを書いておられた。

我々は物事を二元的に見、考える。そこから執着が生まれ、欲を生む原因になるというのだ。二元的とは自己と他者、自分と他の者と、区別して考えたり見たりすることらしい。なんでも、赤ちゃんは生まれたとき、母親のお腹に乗せると、1人でずれ上がって、母親の乳首に達するそうだ。これは本能的に脳の中に記憶されているという。要するに、生まれ落ちたそのときに既に、自己と他者を区別して行動していると、柳澤さんは言う。二元的に振る舞っているわけだ。成長と共に、この二元的振る舞いが強くなっていく。

そこで、柳澤さんは一元的にものを見たらどうだろうと提唱されている。僕のあやふやな知識では説明できないので、柳澤さんの言葉を引用して記そう。

「わたしたちは原子からできています。原子は動き回っているために、この物質の世界が成り立っているのです。この宇宙を原子のレベルで見てみましょう。私のいるところは少し原子の密度が高いかも知れません。あなたのいるところも高いでしょう。戸棚の所も原子が密に存在するでしょう。これが宇宙を一元的に見たときの景色です。一面の原子の飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけです。」

「あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです。」

「このように宇宙の真実に目覚めた人は、物事に執着するということがなくなり、何事も淡々と受け容れることが出来るようになります。」

いやああ、なかなか難しい。般若心経はまさに一元的に見た宇宙観であり、「何にもならないことを、ただひたすらする」と言うことにも、通ずるだろう。

かくして、僕は、ただひたすら、落ち葉を掃き寄せ、自然に戻しているわけであります。「そういうおまえは一体、何者ぞ?」。えええつ、また禅問答ですか?。あります。あります。答えが。ええええええっと、これも先人の偉い坊さんの言われたことばの借り物ですが・・・。「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」。「馬鹿者」と、なぐられそうだ。

うんんんん、先人の借り物じゃーー失格だ。「おまえは何者ぞ」と問われても、いつも答えを二元的な見方の中からさがそうとする。これがいけないんだよなーーー。素直に答えればいいわけだ。「わかりませーーーん」。これが正解だ。何と答えても嘘になるからだ。物事の本質をぴたりと説明することは難しい。あえて、もうひとつ、答えを出すならば、「おまえは何者ぞ?」「はい、私は濃淡です」と言うしかあるまい。




2010年05月24日(月) がむしゃらに、しぶとく。

土曜日・日曜日が雨。今日は終始、曇り空。もう既に梅雨なのか?。そろそろ、田んぼの麦が刈り取られ、水田に様変わりしていく。毎年見慣れている光景だ。田んぼや周りの風景から、時の移り変わりを感じられるのは幸せなことかもしれない。

ところで、口蹄疫という病気に牛や豚が感染し、殺傷処分されている報道を毎日、目にする。その数、何万頭というから驚きだ。人間のエサとして飼育されているとは言え、なんだか、いたたまれない気持ちになる。牛も最後の時を迎える頃になると、死を察してか悲しい鳴き声を出すそうだ。

自然はまさに弱肉強食の世界。弱いものが強いものの餌食になる。確かに、種がはびこび過ぎると自然界のバランスを崩してしまう。適当に淘汰されて自然界はバランスを保つわけだ。共存共栄とは、バランスがとれてこそ成り立つのだろう。てなわけで、我々人類も毎日のように魚類や、ほ乳類や植物をエサとして取り込む。生きるための手段であるが故に、罪悪感はほとんど感じないだろう。

しからば人間は、誰の餌食にもならない自然界の王者なんだろうか?。必ずしもそうではないだろう。人間も何かの餌食になってはいまいか?。例えば人為的なことで言えは、戦争だろう。互いに殺傷しあう。まさに戦争の餌食だ。愚かなこととは分かっていても、人間の本能がそうさせるのだろうか?。歴史がそれを証明している。非人為的なことでは、自然災害(台風・地震等)が、そうだろう。これはいかんともし難い。科学が自然災害を食い止めようと果敢に挑戦しているが、いまだ人間の英知は及ばない。いずれは克服できるかもしれないが。

更に、忘れてならないのは、我々人類を含め、自然界と呼んでいるものの全てが、宇宙という生命体の餌食になるということだ。そんな宇宙さえも消滅という道をたどると言う。「一体どうなってんの?」と言いたい。

いくら考えても結論の出る問題ではない。要は、たとえ宇宙の餌食になろうとも、今という世界を、がむしゃらに、しぶとく生きていくことしかないと言うことだ。




2010年05月21日(金) 五月の空と僕の夢。

曇ったり晴れたりの五月の空。そんな空を眺めながら僕の一日が始まった。やっと、時間が持てるようになったこの頃。午前中に事務仕事だ。しばらく放置していた書類。あとで見直すと、ミスがあるんだよなーー。切羽詰まってやっていると、完璧に出来た思っていても、なにかが抜けている。放置することも大切なことだと、改めて思う。ただし、これも、時間的に余裕がある場合である。

書類の修正を行い、車で提出事務所まで赴いた。五月も中旬を過ぎると、町中は閑散としている。道すがら気づいたが、時々寄っていたドラッグストアーが閉まっていた。恐らく店をたたんだのだろう。栄枯盛衰は恒のごとし。盛者必衰の理か?。いかなる理由かは知らないが、一抹の寂しさを覚える。

日本丸の行方も定かではない。国の財政は破綻寸前。国民1人当たり700万円の借金だ。ただ、こう言われても、ピンとこないが、「国民の皆さん1人1人から700万円ずつ徴収します」と言われたら、そりやあーもう、目の前が真っ暗だ。いずれにせよ、日本も世界も乱世の状態。「親亀こけたら皆こけた」とならないように気をつけたいものだ。

そんな中、嬉しいニュースもあった。金星探索ロケットの打ち上げに日本が成功した。すばらしいことだ。なんでも、金星は高温のガス雲に覆われている。400度は超すそうだ。そんな金星を調べることによって、地球の温暖化や、気候にどんな影響を与えているかが判明するやも知れぬ。ただ、金星に到達するのに5年近くもかかる。首を長くして待たねばならない。

金星と火星はまさに地球の兄弟星。今風に言うと、隣保班だ。昔、学生時代に、覚えさせられた。太陽に近い順番に惑星を言うと、「水・金・地・火・木・土・天・海・冥」となる。「すい・きん・ど・ち・か・もく・ど・てん・かい・めい」と必死で覚えたことよ。その中で、金星と火星は地球の隣の星だから、よけい親近感が持てる。

火星には生命体の痕跡らしき物が見つかったと言うが、果たして、金星はいかがなものだろう?。火星人が「タコのおばけ」なら、金星人は「麗しき、やまんば」ということになるか?。おっと、これは失礼な表現だった。取り消そう。僕のかなわぬ夢は、いかなる星であっても良い。地球外生命体と遭遇したいということだけだ。「あなたとならば、どこまでも」とついて行きたいくらいだ。

嬉しいニュースはさておき、仕事から帰ると、そく、朝顔に水やり。「おいしいごはんだぜ」と声を掛けながら、食事を与えると、朝顔も期待に応えて、すくすくと成長する。いまや、立てかけた棒をはみ出しツルがネットフェンスに巻き付いた。フェンスの上はないから、横に這うしかない。かくして、朝顔のカーテンができあがる。僕の今の楽しみは、朝顔のカーテンの前で、モーニングコーヒーを飲むことだ。早く来い来いお正月ではないが、早く咲け咲け朝顔ちゃんである。朝顔はあまたある花のなかで一番好きな花である。

午後からは、火炎放射器で、ゴミを一網打尽に焼き、ついでに、雑草を焼いた。紫外線と火炎放射器の熱で、僕の顔は真っ赤っか。帽子と水中めがねみたいなめがねで、なんとか顔面は防護したが、いかんせん、首の周りは夕焼けだ。夕焼けとなり、鳶が鳴いたから、家に戻った。一風呂浴びて今日の一日が終わろうとしている。明日は土曜日。人様は休日なのかどうかはしらないが、僕には午前中仕事が入っている。ゆっくり出来るのは午後からだが、弟、来訪の予定あり。それも楽しからずやである。とりあえず、久しぶりの日記を閉じよう。




2010年05月08日(土) 開き直り万歳!!

いやはや、僕も随分、日記から遠ざかっていたことよ。その理由がないといえば嘘になる。理由はあるのだ。スランプに陥ったことがその第一。追い打ちをかけるように、仕事と身辺の事情が僕から自由を奪う。明日は何もないと思い、ほっとしていると電話が鳴る。仕事やそれ以外の予約が入るのだ。

いみじくも、綾小路君麻呂さんが言っていたっけ。「私たちの仕事は呼ばれないと行けないんです」と。僕の仕事もそうかもしれない。呼ばれることは有り難いことである。ただ、悲しいかな。僕の体も不死身ではない。それ相応に疲れが出る。仕事で疲れ、その体で、身辺の事情を解決せねばならない。頭の切り替えも大変だ。疲れは僕の心を日記に向かわせない。何か書こうと思っても、考えがまとまらない。内容が稚拙に感じられる。そこで放り出してしまう。疲れは人の脳をスランプへと導く物なのか?。

だが、今日は違う。先日、見たテレビが大きなヒントを与えてくれた。何かと言えば、一旦、固定概念をすべて捨てて開き直る。要するに頭の中をまっさらにする。仕事で疲れたら、席を離れて全く違うことをする。たとえば風呂に入る。そこで、突然ひらめいて、ノーベル物理学賞を受賞された先生がいる。

「ケセラセラ」、何とかなるさ。あたって砕けろ。明日もお天道様が昇る。ただ、何事にも全力投球あるのみだ。結果は後から着いてくる。すべては御仏の導くままに・・・。こんな気持ちで日々を生きられたら幸いだ。

てなわけで、今日は久しぶりに、キーボードを叩いた。そうそう、近いうちに、スナックで焼酎をあおりながら、フォークソングを歌ってみたい。柏原芳恵さんの「春なのに」。これは既に時期遅れか?。しからば「会いたい」はどうだ?。うんんん、これも悲しい歌だ。特に会いたい人も、いないしなあーーー。あえて、会いたいと言えば「おっかさん」くらいか?。となると、得意のレパートリー、「きよしこの夜」か?。これは時期尚早。歌までが僕を見放したか。

四月、五月の初めまでは、そう考えていたが、今日の僕はそうではない。全部歌っちゃおうという心境である。人からは嘲笑の的になるやもしれぬが、お構いなし。これも開き直りの産物だろう。とりあえず、開き直り万歳で、今日を締めくくろう。


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