umityanの日記
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2009年07月26日(日) 大雨と日食。

「これでもか」と言わんばかりに雨が降る。降りすぎても困るし、降らないでも困る。自然は厄介だ。ただ、これは人間の立場から言っていることで、自然の立場にはたっていない。

自然は時として、大いなる驚異をもたらす。共存共栄の枠を超えて、自己繁栄のみを追求してきた人間への報復なのかも知れない。近年、日常的になってきた異常気象。これが何よりの証拠だ。

ただただ、被害に遭われたかたがたへ、お見舞いを申し上げます。幸い我が家は、川や山から離れた平地にあるため、川の氾濫や土砂崩れの心配はない。むしろ、竜巻や台風、地震のほうが心配だ。

大雨の心配とは裏腹に、先日は四十数年ぶりの皆既日食に世間が沸いた。マスコミの力のなせる業だ。何千万人という老若男女がほぼ同じ時刻に、空を眺めたことだろう。静かに暗くなっていく。そんな光景をみながら、人は何を思っただろうか?。

天文ショーの一つとして、単に面白いと思ったか、もっと突き詰めて、宇宙の神秘に改めて畏敬の念を深くしたか?、そのどちらかだろう。

僕は、これ幸いと、マッサージ機に横たわり、ほんのりと薄暗くなっていく空を窓越しに眺めながら、平静を装っていた。内心は、「どういう現象が起きるのか?」と、興味津々だったが、「大の大人が、この程度のことで大騒ぎしてどうする」と強がっていたわけだ。

何ごともなく時は過ぎた。夜、友人と飲みに出かけた。聞く人皆が、日食を眺めたそうだ。自然環境、経済環境が悪くても、日本は平和だぜ・・・・・。まだ、空を眺める余裕がある。ふと、そう思った。

ある学者の方が書いておられた、「宇宙は有限でもなく、無限でもない。非常に単純だ。宇宙は三次元の時空間のなかで、相対的に存在している」と。「又、生命体は、色んな環境サイクルの相対関係の中から生じ、今日に至っている」と。充分に理解は出来ないが、そう言われればそんな気もする。更に、「月は表面のみを向けて地球を回っているが、全体を見せながら地球を回っていたら、地球に生命体は生じなかった。すべてが、時空間の中の相対関係よって生じている」と。日食もその相対関係の中で生じた一つの現象だ。

バラの木にバラの花が咲く。太陽の周りを地球が回り、地球の周りを月が回っている。何の不思議はない。回っていれば、たまには3つが一直線に並ぶこともあろうさ。そんな冷めた気持で、日食や宇宙の現象を眺めるのも良いと思う。

ただ、いかなる状況にあれ、自然へのいたわりという気持を忘れてはいけないだろう。






2009年07月12日(日) 遠雷に耳をすます。

からっと晴れたことがない最近の空。黒雲のあいだから、かすかに青空が顔を見せる。僕は雷を気にしながら、相変わらず野良仕事と、事務仕事に精を出している。

家の周りでは、水田と減反政策で大豆を植える畑地が交互に存在し、奇妙というか、変わった風景を醸し出している。出来れば周囲一面が水田であって欲しいと思う。なぜなら、猛暑の中にあって、涼しそうに揺らいでいる早苗の緑が目に優しいし、日ごとに成長していく姿に感動を覚えるからだ。

と言いつつ、この僕は敷地周りの緑の雑草たちを、「火炎草刈機で一網打尽にしてやるぞ」と息巻いている。この神経はいかがなものだろうか?。環境美化のためだということで、自分を納得させるしかないか?。

今朝「蛇」を見た。「地震、台風、雷、火事、親父、蛇」。僕が滅法、怖がっているものの一つだ。今朝見た蛇は、そう大きくなかった。僕の「おおーーつ」という声に驚いたのか、さっと、茂みの中へ消えた。まあ、蛇も悪化した昨今の自然環境の中で必至に生きているわけだ。共存共栄は大いに結構だが僕の目に触れない所で頑張って生きて欲しいと願うだけだ。

そう言えば、最近、目に触れるものがあまりにも多すぎるような気がする。世界中のいろんな出来事が一瞬のうちに、映像と活字で目に入る。情報過多と叫ばれて久しいが、正直、辟易することがある。真実が見えないことが多い。「判断はご自由に」と言うことかも知れないが・・・・。

ふと思った。伝達手段が手紙くらいしかない時代に生きていても、それはそれなりに結構幸せではないかと。源氏物語ではないが、歌で恋をつづることも出来る。「いとおかし」である。かの名文、「一筆啓上 火の用心。おせん泣かすな。馬肥やせ」。こういう手紙が書けたらすばらしい。いまや、絵文字入りでメールが携帯に送られてくるが、どうも味気ない。味よりも、スピーディーな情報伝達が大事なのだ。もちろん僕もその恩恵にあずかっているから、大それた事は言えないが、いかに情報を捨てるかということも僕のテリトリーの一つとして考えていきたい。

おっと。雷が「ごろごろ」と鳴った。たとえ、おばあさんであっても、その場にいたら、僕はそのボディーを目指して飛びつくだろう。「坊や、心配ないのよ」という一言が欲しいのだろう。それもかなわなければ、明かりを消して、押し入れにうずくまるしかない。「とっちゃん坊や」と言われる由縁か。





2009年07月01日(水) ドラマを見て。

今日は久々に仕事がさばけたので、先ほどまで有料のドラマを見た。いやああああーー泣けた。人生とはいろんな出来事に翻弄されながら、ただひたすら生きていくしかないのか?。降りしきる雨が涙に拍車をかけたようだ。

つかんだかに思えた幸せさえ、環境が引き裂いてしまう。これを運命というのだろうか?。民族間の争い、国家間の争い、そして貧困と逆境。その中で育まれた異国人との愛が男の本国送還という結末で幕を閉じる。昔はこういう事がたくさんあっただろう。見送る美しい女性の姿があわれだ。戦争は憎しみと悲しみだけを残すが愛に国境はないはず。その愛さえ自由にならないのが戦争だ。

ふと、自分を主人公に置き代えて考えてみた。僕なら逆境の中でどう行動するだろうかって?。死を覚悟して、つかんだ愛を全うするか?、さもなくば、生きていればまた会えることもあると、後ろ髪引かれる思いでその場を立ち去るか?。これは非常に難しい問題だ。まず、直面しないと解答が出せない。言葉だけなら、「そりゃあーー死を覚悟で愛するものを守るさ」と言いたいところだが・・・・・。

昨今、世の中を見ると、豊かさと貧困が同時進行していると聞く。その格差も開きつつあると。それでも、昔、じいさんや、ばあさん、父、母から聞いた状況に比べると、はるかに豊かになったように思える。物質もさることながら、何よりも「自由」であることが一番の豊かさと言ってもよいだろう。。

自由ではあるが、はたして人間の心はどうなんだろう?。心の豊かさは自由や物質的豊かさとは、必ずしも比例していないようにも思える。ドラマの世界は貧困や逆境のなかでの清らかな純粋な愛を描くから人間は涙する。そもそも人間は誰でも心のどこかに、「自分もそうありたい」という願望を持っている。ただ昨今の娑婆世界は、容易にそれを許さない。

「おまえの心はどうなのか?」と問われれば、「もちろん、僕は純粋です。ただ願わくば、逆境だけは避けたいですね」と答えるかも知れない。娑婆世界のしがらみの中に、どっぷりつかった僕の心に、打算という魔物が巣を張り巡らしてきている。打算は欲が生み出す産物か?。欲かあああ・・・。

「負けないで、負けないで・・・・」という泉水さんの歌が頭をよぎる。単細胞な僕の頭は、「明日からこの歌を忘れないで頑張ろう」という気を起こさせている。まずは先へ進むだけだ。僕の名前の如く純粋にーーーー。





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