umityanの日記
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2008年03月23日(日) 雨が僕の心を曇らせる。

静かな雨の日曜日。風もなく木々がしっとりと濡れている。こんな日も良いものだ。娑婆世界に思いを巡らすにはもってこいの日和である。ややこしい仕事を一件かかえているが、集中力を蓄えてから取りかかることにしよう。

一昨日、親戚のいとこ半(父親同士がいとこで、その子供同士のことかなあーーー?)が家族共々、父親の故郷へやってきた。僕の実家近くのホテルに滞在しているとのこと。なんでも、年一回やっている「いとこ会」へ参加するらしい。僕にも要請があったが行けなかった。

思えば親戚が一堂に会するのは、結婚式か葬式くらいが一般的だろう。そういう意味では、こうやって、何かの名目で集まるのはいいことかもしれない。もちろんこれも元気であればこそ出来ることである。残念ながら母は足を悪くしていて、兄が代理出席したようだ。

いとこ半と言っても、顔は知っているが、親しく話したことはない。話ししたとしても、儀礼的になってしまうだろう。多分、僕よりも年下だと思う。血のつながりがあるだけである。近くて遠いのが親戚というから、日頃、付き合いがないと、遠くなるのは仕方がない。

そう言えば、昨年、妙なことがあった。母と叔父さんに全く知らなかった姉が見つかったというのだ。とある役場から通知が来た。母も叔父さんもただ驚くばかり。「どうしたらいいんだべー」と僕に聞く。そいう事実があれば、多分、母も叔父さんもあまりに幼少の頃だったので、ほとんど、姉がいたという記憶がないのだろう。又、周りがそのことを伏せていたのだろう。

いきさつは知らないが、昔はこういう事が結構あったのかもしれない。僕は笑いながら「よかったじゃない」と言ったが、半世紀以上も音沙汰がなく、兄弟姉妹が突然、出現すれば誰だって驚く。知らぬまに時が流れすぎたのだ。

役場の要請は、可能なら引き取って欲しいとの事だった。母も叔父も元気ならばそれも可能だったが、二人とも病院通いをしている身。明日は我が身ともしれない状況では、いかようにもしがたい。辛い選択ではあったが、僕が代筆してその旨を役場へ伝えた。

人が生きることは楽しくもあるが、それと同じくらいに悲しくもある。僕が悲しい歌や、別れの歌が好きなのは、そんな歌の中に人生の悲哀を見いだすからだろう。こう書くと、いかにも自分が人生の悲哀を味わって生きてきたかのように見えるが、そうではなく、人生の悲哀の中にある真実に、ただ涙するのみだ。

今日の雨は僕の心を曇らせている。どこかの地では桜の開花がきかれたそうだ。桜かああーーーー。これまた、はかなくて美しい。当地ではまだ開花していない。今年は寒かったので、開花が少し遅れているようだ。それでも決まって美しい花を咲かせる。そんな花を人が愛でるのは、咲いては散る花の中に自分の生と死を見つめているからだろう。

僕は本来、脳天気で単細胞な男である。はちゃめちゃに生きてきたが、これからもそう生きていくだろう。時折、カラオケで悲しい歌をおらびながら・・・。そうそう、柏原芳恵さんの「春なのに」がやっと、僕のレパートリーの一つとなりつつあるが、未だに音程が狂いっぱなし。これじゃーーー誰も涙してくれない。物になるのは、桜も散った時節はずれの頃かも知れない。だいたい、僕はそういう男である。夏頃、「きよしこの夜」を歌うくらいだからーー。

脱線すればきりがない。今日はこの辺で止めておこう。










2008年03月15日(土) 「春なのに」で涙が出ます。

三月はまさに卒業の季節。学生ならば卒業。サラリーマンにとっては人事異動。これも、新たに出発するという意味では卒業になるか?。僕はすっかり忘れていた。この季節に相応しい素晴らしい歌があったのを・・・。

先日、父親の法要とかで、ネズ君(スネ夫君の兄)が当地にやってきた。四ヶ月ぶりの再会である。当然、旅行仲間5人(スネ夫君、のび太君、ドラえもん君、ジャイアンの僕)が揃った。僕たちはとあるスナックへ乗り込んだ。そこで互いに抱擁しあい、旅行の思い出に浸ったわけだ。

最年長とも言えるネズ君は、マイクを持って歌い出した。少々酔っているためか?ご機嫌だった。可もなく不可もない彼の歌に僕たちはだべりながら拍手を贈る。そんな時、急にドラえもん君が、聴きたい歌があるという。「へえーーー、珍しいなあーー。歌の注文なんて。ところで何の歌?」と問うたところ、な・な・なんと、柏原芳恵さんが昔、歌っていた「春なのに」という曲目だった。

「どんなメロディーだったっけ?」と思い出そうとしたが、メロディーが出てこない。すっかり忘れていたのだ。幸いカウンターレディーの、「祐子」さんが、下手だけど歌えると言う。「じゃあーーお願い」と言って、彼女のバージョンで聞くことにした。ちょっと、音程が狂っていたように思ったが、ドラえもん君が「そう、それそれ」と、感動したように言う。僕は「なるほどねえーーー」という気持ちで聞いていたが、いやああああーーー、この歌は実に良い。今の時節にぴったりで、なんと言っても、歌詞とメロディーがぴったんこだ。

その上に、歌っている柏原芳恵さんの美しいこと。彼女ほど美しい女性がこの世にいるだろうか?。いる。いない。いる。いない。うんんん、これは個人的主観の問題だ。どちらでもいいか?。僕は今頃になって、たちまち彼女の虜になってしまった。不純な僕にはもったいことは重々承知の上で・・・・。

「春なのにお別れですか?。春なのに涙が出ます。春なのに、春なのに、ため息、またひとつ」。僕も今、ため息をしながらこの備忘録を書いている。そう言えば、高校時代は何度もため息をついた。僕のため息はこんな ロマンティックなため息ではなかった。「受験に失敗して、花が散るかもしれない。ああああーーーつ、神様仏様・・・」という嘆きのため息だったようだ。

「卒業しても、白い喫茶店。今まで通りにあえますねと・・・・。記念にくださいボタンを一つ。青い空に捨てます」。この歌詞を読んだとき、単純な僕は思ったものだ。「ボタンなんかもらってどうすんだべー?。空に向かって捨てるなんて、もったいないじゃん。」とかなんとか。おくての僕には、恋いとか愛とか、人との別れを慈しむ高尚な感情はまだ持ち合わせていなかったようだ。今の若い人たちはどうなのかよく分からないが・・。うんんん、記念のボタンを空に向かって投げるのは、それは友との別れ、と同時に青春との決別、新たなる旅立ちを意味しているのかもしれない?。

青春とはまさに青い春。うら悲しく、ため息ばかりである。僕にも青春があったのだろうか?。思えば高校時代は喫茶店へ行くこともまれ。田んぼのあぜ道を、ひたすら自転車のペダルを踏んで、学校と我が家を往復することに奔走したように思う。そんな僕も大学時代にはよく喫茶店へ行った。コーヒーを飲みながら、ひたすら新刊のマンガを読みあさったっけ。喫茶店のマスターも、そんな僕を温かい目で見てくれていたようだ。まだ恋いは覚えじ。というより、ふられて、リンゴ箱ベッドで、おいおいと泣いた記憶のみが鮮明に蘇る。

時が流れ、娑婆世界で、もまれもまれ生きてきた。そんな中で、僕の好きな歌もいろいろと変化してきた。「春なのに」という歌は、ドラえもん君が注文するまでは、僕の脳裏になかった。もっぱららスナック等でおらんでいる歌は、百恵さんの「コスモス」、いるかさんの「なごり雪」、誰の歌だったか忘れたが「会いたい」、ストーカーではないが「待ち伏せ」。南こうせつさんの「神田川」だった。そして、今や、僕の新たなるレパートリーの一つとなりつつある歌が、この「春なのに」である。春なのに・・・・・、いやああーーー、ため息が出るぜ。

今、おらんでも誰も涙してくれないので、自ら涙することにしよう。


2008年03月13日(木) 僕の去年が終わった。

僕の去年が終わった。一年を精算するのもなかなか大変である。可もなく、不可もなく終わった手をじっと見た。見えたのは、苦労を思わせるかのような「しわ」だけだ。おおおおつ、いとしい「しわ」よ・・・・。

一昨日の夜、小料理屋の暖簾をくぐり、ママさんにそのことを告げると、ママ曰く。「私も終わったのよーーー。ところで、○○さん、去年の身辺整理は終わったの?」と聞かれた。「ええっ?、身辺整理?。僕にそんなものがあるわけないじゃん」と応えると、ママは笑いながら、「それもそうよねー」とか言う。「失礼だぜ」と思ったが、まあいいか。

その日の午後、僕は故郷の地を踏んでいた。母の申告書作成を手伝うためだ。あまりに、簡単すぎて、僕みずからが手を下す必要もないほどだが、恒例の里帰りである。日頃は電話だけでの会話だが、直接会って話しをするのも、親孝行のつもりである。母も僕の姿を見ると安心するわけだ。

高速をひたすら走り、故郷の町へ入った。空は青く、山と海に囲まれた小さな温泉町の空気は美味しかった。ただ、年々高齢化が進み、昔の活気が感じられなくなったことが寂しい。ただ酒を飲ませてくれた酒屋の友人も、旅館が不景気で注文も少なく、店のシャッターを下ろしていた。なんでも、女房ともども、どこかへ勤めているそうだ。時が流れ、人の流れも変わったのだ。まさに諸行無常。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水に非ず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて久しくとどめたるためしない」。いやああーーーーつ、わびしいぜ。

母の申告書の提出を終え、二人きりの夕食と相成った。近くの食堂から「チャンポン」を配達してもらった。食堂のおばさんは、近所と言うこともあり、昔からよく知っていた。確か、僕より一つ二つ歳が違う子供がいた。母親同士というのは会えば、子供の話ばかりである。「よう来なさったねーー。今、どこにおんさっと?。うちの子は、どこどこにおりますばい。この前、帰ってきとったよ・・・」とかなんとか。僕はただ、「はあーー、そうですか」とあいずちを打つのみ。まああ、どんな母親にとっても子はかすがいだ。いつも、達者で暮らしていることを願っている。おのずと子供の話に花が咲く。

食事を終え、ひとしきりだべり、僕は、とんぼ返りの準備をした。母は、名物の食材を持たせてくれた。僕は後ろ髪を引かれる思いをふっきり、車を走らせた。「もう母ちゃんも何年も生きらんばい」と笑いながら言った母の言葉が耳について離れなかった。生きていくことは楽しいが、人が老いていく姿を見るのは何故か悲しい。もちろん、自分も老いていくわけだが、まだ僕の辞書に「老い」はない。

3時間弱で、我が家のある市へ入った。僕はすかさず、母に電話した。「もう、家の近くまでたどり着いたから」と。母曰く。「そう、それは良かった。寄り道しちゃいかんばい」と釘を刺された。僕はぎくっとした。僕の心が見透かされているかのようだ。というのも、僕は常習犯だ。いつも、遠出をすると、帰りはどこかへ立ち寄って、一杯やっていく。実はその日も、それをもくろんでいた。結構、早い時間に市内へ着いたので、冒頭の小料理屋へと足を運んだわけである。

僕の仕事も母の仕事も片づいたことだし、まずは乾杯だ。ようやく、僕の去年が終わった。


2008年03月03日(月) 遺言書かあーーー。

今朝、ドラえもん君(本業の同業者)が我が家へやってきた。何かと思えば、遺言書について聞きたいという。「へえーーー誰の遺言?」と尋ねると、身寄りのないさる人が、死後のことをすべてドラえもん君へ託すのだそうだ。そのために、その人が遺言書を作りたいらしい。「なるほどねーー」、遺言書か?。世間にはよくあることだ。

幾ばくの財産があるのか知らないが、手っ取り早く、確実なのは、やはり遺言公正証書を作ることだろう。その手続関係について説明すると、分かったような分からなかったような顔をしていたが、彼のもっぱらの心配ごとは、「遺言する人が亡くなるまでの面倒を誰がするのか?」ということらしい。「そりゃーーー、遺言執行者として、あんたが指定されるのなら、あんたが、せにゃあーーなるまいて」と言ってやった。

確かに、身寄りにない人の生前の後始末、死後の後始末は大変なことである。プロに頼む手もあるが、彼は遺言執行者となる男だ。当然、なんでもしてあげなくてはいけないだろう。生前には、余命幾ばくもない人を入院させ、生活関連の色んな手続(部屋の家賃、水道光熱費、介護保険、色んな機関との折衝、話し相手等)をしなければならない。行政が肩代わりする部分もあると思うが、その相手はやはり、遺言執行者となるべき人であろう。

「じゃあーー、生前の諸々の費用等は僕が立て替えて払わねばならないの?」とドラえもん君が聞く。「遺言者の手持分があれば、当然、それを預かり、その中からドラちゃんが払えばいいじゃあない。足りなければドラちゃんが、立て替えて払うべきでしょう」と、僕は言った。彼が語るには、そのことを遺言者に言いにくいらしい。てな訳で、「今度、遺言者を連れて一緒に僕の所へ来るから、僕から話して欲しい」と言う。それもそうだ。第三者から話したがいいだろう。これで、話しが決まった。「ドラちゃんも、図体だけは大きいが、意外と了見が狭いぜ」と思ったが、日頃なじみがない遺言等になればそうだろう。

僕も色んなケースを見てきたが、遺言書のない場合は、相続人の確定から始まり相続財産を確定しなければならない。相続人が確定すると、法定相続に寄らない場合は、遺産分割等をして、もらう分を確定させるわけだ。この話し合いがうまくいけば、一件落着。ただ、世の中はそんなに理想的ばかりには行かない。相続人同士の骨肉の争いとなる場合もある。その点、遺言書があると、これは亡くなった人の最後の意思表示。大事にしなくてはならない。結構、遺言書通りでまとまることも多い。

僕も、父の妹である叔母が未婚で子供もいないまま亡くなったとき、その後始末で、少々不愉快な思いをした。遺言書はなく、兄弟姉妹の四人が相続人となった。遠方にいた叔母の見舞いやら、葬儀(時間が間に合わなかったが)には代表で僕が赴いた。ホスピス病棟に入院していた頃、叔母を車いすに乗せ、院内を散歩したとき、水槽の中で泳いでいる金魚たちを、じーっつと見つめていた叔母の姿が今でも忘れられない。その時、後の始末は全部僕がしてあげようと思った。

当初は、僕が後始末のため、現地へ行くことになっていたが、急遽、長男である兄がその後の全部を仕切った。母は相続人ではないし、兄であれ、次男坊の僕であれ、どちらでも良かったと思うが、墓守は長男がするわけだし、母も長男の近くにいる。僕としては若干のしこりはあったが仕方がない。叔母はやはり、先祖と自分の墓守のことが一番心配だったのだろう。兄から送られてきた書類に捺印して返したら、幾分かの分配を受けた。

僕はいつも思っているが、「下手に財産を残すよりは、使い切ってこの世とおさらばしよう」と。もちろん、葬式代と若干の必要経費は残すべきかも知れないが・・・。遺言書の相談から話しがあらぬ方向へ行ってしまった。

この話しはこれで止めにして、今宵は弟(仕事仲間)が主催する落語の講演会へ行こうと思っている。僕は40枚のチケットを託され、35枚を売りさばいた。といっても、これは僕の実力ではない。行きつけのスナックや小料理屋へ依頼していたら、見事に捌いてくれた。僕の実力はほんの5枚か?。弟が1800名収容の会場で、挨拶をするそうな。先日、テレビでおらびながら、広報していた彼の姿を見たが、幾分か手が震えていたような・・・?。僕にも経験があるが、挨拶はもうこりごりだ。今宵の彼の挨拶が楽しみだ。

さああ。出かけるとするか。





2008年03月02日(日) 今年も反省が多い年になりそう。

弥生、三月。まだ肌寒い。「暑さ寒さも彼岸まで」というから、もう少しの辛抱だろう。ここ数日、やたらと忙しかった。体がくたくただ。二足のわらじをはくと、履き替えが大変だが、これも運命。やれるところまでやるしかない。

娑婆世界は、今、税金申告で大わらわ。まだ何も手をつけていないが、そろそろ、取りかからなくちゃ。思えば昨年は、パートさんなしで、何とか乗り切った年。「なせばなる。何事も」をモットーに、パートさんがやっていた仕事も自らの手で・・・・。小さな事から大きな事まで。確かに大変である。超零細企業なので仕方がない。ただ、ひたすら、前を向いてやるだけだ。

さて、昨年の成績は如何?。人件費が減った分だけ、幸いした。と、同時に交際費も激減だ。何でも一人で、しなくちゃならないので、夜の交際費も減少。ダブルプラス効果が生まれた。と、思っていたが、さにあらず。仕事量の減少と、未収入金の増加で、プラス効果が打ち消されてしまった。「こちらを立てれば、あちらが立たず」。人生とはまさにこういう事の連続に違いない。まあ、体である資本は、減価償却で少々、帳簿価格が減少したが、残存価格に達するまでには、まだ時間がある。そのうちに新たなる燃料補給を行い、体質改善に努めねばなるまい。過剰投資は肥満を産むだけだ。コンプライアンスに徹して、健全な心と体をつくっていこう。と、今、意気込んではいるが・・・・・・・。

てなわけで、今宵はエネルギー注入の一環としてコンサートへ行くことになっている。シンガーは森山良子さん。思えば若かりし頃、フォークの女王と呼ばれていた森山良子さんの美声と歌のうまさにあこがれたものだ。ピュアでプアな僕には手の届かない彼女のレコ^ド盤。、ずーーーっと後になってから、彼女のLP盤レコードを手に入れたときは嬉しかった。「この広い野原いっぱい」、「時には母のない子のように」、「白いギター」、「五十番街のマリー」、「戦争を知らない子供達」、「サトウキビ畑」「・・・・・・」。彼女のうたう歌は何でも好きだった。と、同時に、お姉様みたいな彼女にあこがれたものだ。時が流れ、彼女に再会することになる。これも縁と言えば縁か?。

そうそう、高校時代、「フォークソング倶楽部の女王」と言われていたらしい小料理屋のママさんも、当コンサートへ行くらしい。先日、小料理屋の門をくぐったとき、そう言っていた。井上陽水さんのコンサートの時も、ママさんは顔を出していた。店のBGMはフォークソングばかり。いかにフォーク好きかがうかがわれる。前回も、今回も僕は思ったことがある。それは何か?と言えば、「勝ったぜえ・・・・・」と言うことだ。何を勝ったのか?。あまりにもくだらないことなので、書くのも気が引けるが、僕の席の方が前回も今回も場所のいい所ということ。いやああーーーくだらない。が、そんなくだらないことでも酒の席では話しの種になるから面白い。彼女のくやしそうな顔もまた魚になる。ごめんなさい。

僕が勝つのには、それなりの理由もある。高校時代の友人が、チケットを手に入れやすい職業にいるからである。彼を利用して手に入れたところ、良い席だったので感謝・感激。お礼に当地名産の果物を贈ったほどである。

おっと、いけない。僕はいつも、知らず人を傷つけている。つい、先日、反省したばかりだ。自己顕示欲の強いナルシスト。これが僕の欠点。分かってはいるが止められず、つい羽目を外してしまう。人の心をもう少し推し量って、言わなくては。ああああああーーーーつ、また反省だ。そう言いながら、ちっとも反省していない、あなたの姿が見えまあ・・・す」。いけない。いけない。
まじめに戻ろう。


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