umityanの日記
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ここ2日ばかり、良い天気が続いている。なるほど五月、さすがに五月だ。僕の大好きな季節。例によって、朝から玄関横の草花に水まき。以前は山の神の仕事だったが、最近は僕の日課となった。それもそのはず。僕は大の朝顔好き。園芸店で朝顔の苗を購入し、植えたのが僕。やはり、自分で手をかけたものはいとおしい。日ごとに蔓をのばし、天に向かってまっしぐら。「僕のかわいいい朝顔ちゃん」とめでながら、隣を見ると、そこには山の神がそだてている、いくつかの鉢やらプランタンが・・・。赤、黄色、紫、ピンク等の花々があでやかに咲いている。「うんんん、とげとげしい」とは思いながらも、水をたっぷりと注いでやる。山の神曰く。「花にみずをやったーーー?」。僕曰く。「とーーーっくにやっていますよ。はいーー」。あああああつ、ご養子さまはつらいぜーーーーーー。
そういえば、山の神のばあさまがよく花を育てていた。来訪者があると、いつも花の美しさをほめていた。親子は似るものだ。その影響か?。山の神もせっせと花を育てている。ばあさまの時と同様。来訪者がその花を「うつくしかあーーー」といってほめる。そのことがまた、山の神には嬉しいのだろう。そんな光景を見ながら僕は、「なるほどねー」と感心。されど、僕は男。さほど、花には興味がない。
ただ、若かりし頃、いつわりのバラの花を女性へ手向けたことがあった。「君の前ではこのバラの花もかすんで見える」とかなんとか、歯の浮くような言葉を並べて女性の心をくすぐったが、女性もさるもの、ひっかくものだ。「当然よ。私の前ではどんな花も、かすんで見えるわ。だって、私をいっそう引き立てる道具だもの」。うんんん、これには僕もたじろぐばかり。「ごもっともです」と言うしかない。その後の結末は、「あっしー」として、ご奉仕するばかり。やがては、履き捨てられた靴のように、下駄箱の隅にぽい。僕は手作りのリンゴ箱ベッドの中で「おいおい」と泣くばかり。あああーーーーーつ、はかない人生。そう思って以来、花に興味がなくなった。
とは言いつつ、朝顔だけには愛着がある。やはり、山の神と同様。小さい頃、母と植え育てた朝顔の質素だが、可憐な花の姿が未だに、心に焼き付いているからだ。赤、青、黄色、白。僕の見た朝顔はどれも、はかなく美しく、精一杯の清潔さを醸し出していた。その姿がいとおしくないだろうか?。いや、いとおしい。僕は人間世界に朝顔のような女性を求めた。いまだにみつからじ。それもそのはず。若かりし頃の女性恐怖心がいまだに払拭できず、遠目、夜目の世界で生きてきた。犬も歩けば棒に当たるとはいかない。ちょっと、オーバーではあるが。
僕の求める女性とはアニメの世界で言えば、あの「999」のメーテルのごとき女性。黒のマント」に、身を包み、黒のハット。切れ長の美しい目は、泣いているのか笑っているのかわからない。いつも、うれいを含んだ目で、機械文明の世界を眺めていた。メーテルが真に求めていたものは、心は貧しくても人間らしい生活をしている世界だったのだろう。そんな世界の男が「てつろう」である。メーテルが心を引かれないわけがない。「メーテル」は「てつろう」の心にふれながら目覚めていった。僕も「てつろう」みたいな男になりたいと思ったものだ。
時々、スナックで、泣いているのか?笑っているのか?分からないような目をした女性に出会うことがある。「どきっ」としながら、「君、泣いているの?笑っているの?」と尋ねると、返ってくる言葉は「これが普通よ」である。僕の期待した返事は、「泣いているか、笑っているか」のどちらかだった。さすれば、その後の会話がはずもうというもの。残念・・・・。
スナックのママさんに、「朝顔のような女」の話をすると、「今時、そんな女がいるもんね。ドクダミならいっぱいいるけどね」である。あああつ、悲しい世の中だぜ。どくだみかああーーーー。仕方がない。煎じて薬とするか。
五月も中旬を過ぎた。連休が終わり、母の日も終わった。あと待たれるのは影の薄い父の日か?。なんでも、国は秋のゴールデンウィークの設定を模索中とか?。休みが増えるのは結構なことだが、それは大企業向け。中小企業や、我がごとき超零細企業にとっては、世の中が動かねば、死活問題である。格差社会の是正どころか、格差はますます広がっていくのではと懸念される。その言葉に反するようだが、世の中は史上空前の好景気だとか。テレビでやっていたが、お金は一体どこへ行っているのだろう?。サラリーマン諸氏の懐はちっとも増えていないという。我が零細企業でも、未収金が増え、現玉が流入してこない。「何でだ?」と思う。ということは儲かっているのは一部の企業だけか?ということになる。あああああーー、はかないぜ。嘆いても仕方がないか。馬車馬みたいに、汗水流して働くことが肝心のようだ
僕のゴールデンウィーク。何のことはない。例年通りに仕事。人が休みの時に仕事とは、因果な商売である。泣き言を言っておれないのが我が仕事。天が与えた仕事でもあるし、これなくしてはおまんまの食い上げだ。さすがに、神様もそんな僕を哀れと思ったのか、一日だけ自由なる時間を与えてくれた。しかるに、人間って不思議な者だ。その自由なる時間が、かえって束縛になり、心は 右往左往するばかり。これをやろう。あれをやろうと思っても、どれも手につかない。すでに、体が仕事貼りになっているから
母の日・・・・。良い言葉であり、良い習慣である。この日が近づくと否が応でも母のことを思い出す。女性には花が最高の贈り物だ。兄嫁は決まってカーネーションを送るそうだ。我が山の神は、昔は衣類等を買って送っていたようだが、最近は金にしたようだ。母に聞くと、「そりゃああ、先立つもの・・・お金がいいわ」と言う。母もさるもの、ひっかくもの。アメリカではカーネーションではなく、バラの花だそうだ。さすがに、情熱の国、アメリカだ。恥ずかしや、何故日本ではカーネーションなのか知らない。花言葉に意味があるのだろう。検索で調べればわかることだが、あえて、今はそうしたくない。
ということで、自分なりにカーネーションに意味付けをした。カーネーションの「カー」は母さんのカー。「ネー」は姉さんのネー。「ション」は、しょんべん小僧のション。いわゆる、家族の愛を表わす花がカーネーションである。こじつけが、ちょっときつかったか?。
ところで、テレビのニュースで見たが、高校生の男の子が、母親の首を切断して、自首するという痛ましい事件があった。どういう事情があったのか、定かではない。ただ、色んな事件があったとき、いつも感じることは「目線」の違いということである。他人であれ、家族であれ、目線を同じくして話し、行動しなければ、心は通じない。子供と話すときは、自分も子供になり、子供の目線と同じくする。地域社会にあっても、おじいさんや、おばあさんと話すときは自分も、おじいさん、おばあさんになったつもりで、教室で授業をする先生は、自分も生徒になったつもりで、父と子、母と子も、自分が子供になったつもりで・・・・・。こそういう生活パターンが定着すると、おそらくは、心の悩みや、病も少なくなるのではと思う。病んだ人の心を上の目線からではいやすことはできないだろう。
久しぶりの日記で思わず興奮してしまった。最後に「父の日」について言及したいが、影の薄い父の日だ。紙面の都合もあり、この辺でやめておこう。
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