umityanの日記
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2007年01月31日(水) 一月にさよなら。

一月も、あと数時間で終わりとなる。クリスマスや正月の前など、よくカウントダウンするが、一月終わりのカウントダウンとはこれ如何に?。
人によりけりだろうが、僕にとっては貴重な一月だった。従って、「一月」という月に去ってもらうのは何となく寂しい気がしている。

31日間を振り返れば、一人ぼっちで仕事に明け暮れた。よく頑張ったぜ・・・。この頑張りが貴重な一月の理由である。過去になかったことだ。誰も褒めてくれないから自分で褒めよう。と同時に、よく遊びもした。僕にとって遊びとは社交。いろんな人と出会い、その中で喜び、悲しみ、愛、憎しみが交錯する。そんな感情に振り回された一月でもあった。

ボスを見舞った。今年三回目の見舞いである。ボスは相変わらずベッドに伏していた。点滴をつけたりはずしたりの繰り返しだそうな。ボスは、か弱い声で「ありがとう」と、つぶやいた。以前のような健康体に戻ることは恐らく難しいだろう。奥方が看護士等に不満を洩らしながら気丈に付き添っている。奥方の介護がなければボスもここまで長命できていないかもしれない。奥方様々である。

こういうボス夫婦の光景とは裏腹に、熟年離婚を模索している中高年夫婦が最近、増えているそうな。なんでも、離婚しても、最高で年金の半分を頂戴できる制度がやがて施行される。それまで女性は離婚を控えているらしい。かたや、男性は半分やりたくないがために、制度が施行される前に離婚をせねばと、あせがっているそうな。「夫婦とは言ったなんぞや?」と、いぶかしくなる。

ただ、年金の半分がいかほどになるのか、ある平均的なモデルを紹介していたが、意外と、受け取れる額が少なかった。「ちょこっと、足りないんだよなーー。これじゃーーーー一人暮らしもままなりません」と、離婚を思いとどまるべきか、思案中の人も多いとか?。

世の中って、自分の思うようにはいかないものだ。双方うまくいく良い解決策はないものだろうか?。熟年離婚して熟年再婚するのも一つの手。相手が変われば「老いらくの恋」で花が咲くかもしれない。

おっと、僕がまだ考えることではなかった。このへんで一月にさよならしよう。







2007年01月24日(水) 正月が駆け足で過ぎた。

相変わらずいそがしい毎日だ。いつまでも、正月は立ち止まってはくれない。「働けーーー、働けーー」と尻を押される。「はいよ。はいよ」と僕も動きはしているが、なにせ、パートの事務員さんが昨年、退職したので、今は何でも一人でやらなくてはならない。書類作成はもちろんのこと、コピーから、製本から、はさみで「ちょきちょき」から、糊付けから、電話の応対から、ゴミ出しから、はたまた来客のお茶の接待まで・・・・・。

まあ、こういうことは嫌いではない。なんでも一通りをこなせなくてはプロとは言えないからだ。考えてみれば今まで、随分と楽をしていた僕が見える。ただ、長期的にこの状態が続くことは好ましくないだろう。いずれ、僕の手にあまる時期がやってくるのが目に見えている。その時は、あらたなる手だてを講じなくてはなるまい。

パートさんで思い出した。ついさっきテレビをかいま見たら、パートさんや契約社員と呼ばれる人たちの労働と賃金について、アンケートの結果が出ていた。パートさんや契約社員の人たちは会社の正社員と変わらないくらいに責任ある仕事をしているのに、賃金ベースが低いと、不満を持っている人が50%以上もいるそうだ。

「なるほど」とうなずける面と、「そうかなーーー?」と否定的に思える両面について考えてみた。うなずける面は、今パートさんたちの労働力は日本経済を支える重要な担い手であるということだ。と、同時にパート労働は豊かな生活を維持するための強力な手段になっているということである。確かに地位向上と賃金ベースの見直しが求められても、おかしくはないだろう。

別の面から考えてみよう。わたくしは古い人間でございます。僕が考えていたパートという仕事に対する認識は、機械化や電化の恩恵にあずかり、余った時間を、旦那の扶養に入る程度の収入で働きたいという、そいう人たちがする仕事のことと思っていた。今はそうでなくなったのだろうか?。ささやかに働いていたパートさんたちの姿がなつかしくさえ思える。「あんた甘いよ・・」という声が聞こえる。

確かに、配偶者特別控除が廃止になり、扶養控除さえ、なくなりはしまいかと不安におののく今日この頃、安給料の旦那の扶養に入るよりは「がばっ」と稼いで、ローンの支払いに一部あてて、残りは旅行でもして楽しくいきやしょうと、考えている主婦の人たちが増えてきたのかもしれない。税金は払っても、大事なのはいかに可処分所得を増やすかだぜ・・・。そいうことなんだろう。あな、おそろしや。その背景にあるものはいったいなんだろうか?。

北極や南極の氷が、後、40〜50年もすれば溶けてなくなり、地球は崩壊の危機を招くとも言われている。またまた、世界遺産に登録されることに決まったらしい富士山だって、その永久凍土が融解し、岩石の崩壊がささやかれている今日。自然環境破壊の中で、なにをか求めて我々は生きていけばよいのだろうか?。

わからない。ただ一つ、はっきりしていることは、未来に夢が求められなくなっているということだ。





2007年01月07日(日) 故郷にて。

2007年が明けて一週間が過ぎた。世間では四日頃から仕事始めの由。僕は正月二日から今日まで連続でお仕事。仕事様々だ。涙が出るぜ。あああ、因果な商売だ。休みが欲しい。そうは思えどクライアントがいる以上、仕事は仕方の無いことだ・・・。

そんな中、四日の日、とんぼ返りで故郷の地を踏んだ。2007年の初頭にあたり、そのことを書いておこう。弟が母と仲むつましくやっていた。茶碗洗いやら、買い物やら、母が「しなくていいから」というのに、何でも率先してやっているようだ。母に無理をさせまいという弟の思いには頭が下がる。

母は土産品店をやっていたが、今は廃業し、数少なくなった在庫を処分するため、店舗を半開きの状態にしている。その店舗へ僕はそそくさと車を着け、かき集めてもってきた土産をおろした。

まずは正月の挨拶をして、則、仏壇へお参りだ。線香を立て、「チーン」と鈴ををならして合掌。心の中で祈る言葉はいつも決まっている。「父さん、ただいま帰りました。元気でやっています」。これだけである。これだけで十分だぜ。何かをお願いしようと、報告しようと、要は心である。

背広の内ポケットから、幾ばくかの金を入れておいた祝い袋を取り出し、仏壇へ備えた。「これここに置いておくから」と母に見えよがしに言うと、母は「あんたには何もしてあげんとに、ほんにすまんねーーー」と、いつも同じ事を言う。確かに、弟や兄に比べたら僕の影は幾分かは薄いかもしれない。次男坊とはそういうものだろう?。別にひがんでいるわけではない。苦労しながら大学まで出してくれたり、人生の危機を何度も救ってくれたのもやはり母である。母にとって子供に対する愛情の差なんてあり得ない。弟がちらっと視線を向け、ほほえんだ。

元来、能天気な僕。ほとんど心理分析をすることはないが、弟のほほえみについて考えてみた。「兄いーーー、母さんの為に有り難う。僕はたいしたことは出来ないから、よろしうお願いしまっせ」と、弟はほほえみで表現したように思えた。そんな弟である。

兄とは残念ながら会えなかった。賑やかなだべりと正月料理をついばんだ後、車で30分程度の距離にある叔父の家へ弟と挨拶に行くことになった。叔父は弟と同様に末っ子の為か、弟を無性にかわいがっている。事あるごとに贈り物なんか交換しあっているようだ。僕も時々、最高級品と銘打った「蜂蜜の瓶」をいただいたりしている。

小一時間はいただろうか?。叔父と叔母の健康を祈願して、弟を再び母の所へ届けた。僕はそろそろ帰還の時間が迫っていた。というより、もう何度も会えないだろう弟に、たっぷりと母親のおっぱいでも吸ってもらおうという配慮も若干あった。さらば地球よ・・・・・。宇宙戦艦大和のような心境で故郷を後にした、ちょっと大げさか?。とりもなおさず、刹那ではあったが故郷の地を踏み、弟共々、母と再会出来たことは幸いだった。






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