umityanの日記
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2002年11月29日(金) 今日は11月の締め、閉めだ。

今日は11月の締め、閉めだ。
at 2002 11/29 19:25 編集

あれよあれよと言う間に、11月も終わりだ。いやはや、色んなことがあった。いまさら、どうこう言っても後の祭りなので、あえて、言わないでおこう。それにしても、今日はいい天気だった。まさに小春日和。いつも、こんな時、山口百恵さんの、コスモスの歌を思い出す。「こんな小春日和の穏やかな日は、あなたの優しさが・・・・・・」。いやあ、いい歌だ。誰かに、こんな気持ちでささやいて、ほしいものだ。胸に「じーーーーーん」とくること、間違いなし。さてさて、この歌を引っさげて、僕は早朝より、隣の市まで、お仕事だ。山道はもってこいのドライブコース。登ったり、下ったりの起伏に富んでいておもしろい。もちろん、油断大敵。くれぐれも無理しちゃいけない。そうそう、そんな歌詞の歌もあったっけ。「無理して、飲んじゃあ、いけーーないと、・・・」。そんなことを言いながら、実は昨夜も、のりちゃん先生と一献傾けてしまったのでした。今週は二回目。僕たちは珍しく、「ショットバー」みたいなところへ繰り出した。飲みなれない「ジン・・・」とか、バーボンなんかを飲んで、きざっぽく話をしたことでした。こういう店は、どちらかというと、男っぽい店で、ちょうど、西部劇にでてくる、酒場に似ている。僕はハットをかぶっているから、まさにぴったりだ。店の、お兄ちゃんたちは、「おい、ガンマンが来たぜ、というより、おやあっつ!!、笑うセールスマンが来たぞ」という雰囲気だった。おまけに、のりちゃんは、例の「どっちの料理番組」の三宅祐司さんにそっくり。今日は芸能人の仮装パーティか?。まあ、そこまでは良かったのですが、ここでの、気付薬が効きすぎてしまい、「次へ行こう病」が、二人にでてしまったのである。僕たちは何の疑いもなく、とある、外国人タレントさんばかりの店へ足を運んだのでありました。著名人の僕たちは、どちらかというと、こういう店の方が目立たなくていいわけだ。なんと、のりちゃん先生は、いつも、引っ込み思案なのに、ここで、自ら歌のチケットを購入し、きれいどころと共に歌うこと、歌うこと。僕は、あきれて声が出ませんでした。一方、僕は何をしていたかというと、ちょっと、疲れ気味の外国人タレントさんの、全身マッサージ。頭から首から背中、腰から、もも、足首、いたるところを魔法の指で、もみもみしたのであります。こう書くと、よほど、僕は好きものの、エッチと思われそうなので、名誉のために弁解いたします。決して不純な気持ちではなく、彼女たちの、疲れている様子を見ていると、なんとなく、リラックスさせてやりたいと思うのです。棒の機械仕掛けのような、黄金の指は緩急自在。彼女たちは目をぱちくりさせて、「ああ、気持ちが良い」と、にっこり。帰り際、僕は言ったのでありました。今日はマッサージの仕事で来たみたいだ。「はーーい、今日のお代はタダだよ」ってね。彼女たちは、それはそれは喜んでくれたのでした。まあああ、これも国際親善。良かった、良かったで午前0時を過ぎた。さあああ、帰ろうとしたら、なんと、のりちゃんが、いつもの事ながら、どこかにバックを忘れたとのこと。何たる不始末。いっぺんに酔いもさめてしまった。しかたがないので、電話で、店に問い合わせたところ、一番最初の、行きつけの店で、自転車とバックを預かっているそうな。人騒がせな!!!!。僕はぷんぷんと怒って帰りました。かくて、今日に至った次第であります。いけないいけない。言葉使いが、です。ます。調になってしまった。十分恥をかいたので、このくらいで11月を閉めよう。


2002年11月27日(水) 懺悔、懺悔の月


懺悔、懺悔の月
at 2002 11/27 11:55 編集

はや、11月も終わろうとしている。いつも思うことだが、「今月の自分はどうだったのだろう?」って。いやはや、語るのもおこがましい。まだ終わってはいないが、乱れに乱れた月だった。週に三・四回は夜の巷をさまよい、美辞麗句を並べ、大トラになってきた。そのつけが今、回ってきている。どうも体調が絶好調ではない。まあ、不摂生をすれば、これは当然と言えば当然の報いである。今月、僕を乱れさせた最大の要因は、一見客の忘年会を成功させたことにあるかもしれない。僕は例によって、男性と女性のマンツーマンの忘年会を企画。昨年もそうだったが、今年もほぼ完璧にマンツーマンが実現した。要するに、あちこちから応援のぴちぴち女性を男性の人数に見合う分、チャーターしたってわけだ。もちろん、女性陣は飲み放題、食べ放題のロハ。代金はパートナーの男性もち。こうでもしなければ、マンツーマンなんてまず実現不可能だろう。男も男である。秘書みたいな、かわいい女性とさしつさされつで、だべりながら飲み歌う忘年会とは、まさにクラブのヴィップ待遇。参加して不足はない。僕はその幹事で、責任は重大だ。とりあえず会費だけは最初にもらっておかないと、不満がでたら大変だということで、腰を落ち着いて飲んでいる暇とてなかった。いざ、ふたを開けてみると、それはそれは盛り上がった。はちゃめちゃとは、こういう状態のことを言うのだろうか?。みな、わがことしか考えていない。この成功を契機に、僕の力も「まだまだいけるぞ」と過信したのが、今月の大きな僕のミスだった。「猿もおだてりゃ木に登る」。これは当たり前か。あれっつ、何だったかな?おだてて木に登る動物って?今、度忘れしてしまった。そうそう「ブタくん」だったかもしれない。要するに、僕も、おだてられて、木に登ってしまった。なかなか降りてこないで、とうとう今日に至ってしまったというわけだ。情けない。来月は年末月とはいえ、かなりの自重が必要のようだ。まさに、今月も、懺悔、懺悔の月だった。



2002年11月24日(日) エンドレス・ラブ

エンドレス・ラブ
at 2002 11/24 18:43 編集

今日は本当に良い天気だった。僕は朝から仕事。人は皆、こんな日には、どこか行楽地へ行って楽しんでいるのかもしれない。うんんん、ひがまない。ひがまない。仕事万歳だ。そういえば、のりちゃん先生も今日は我が家へ帰還して、つかの間の幸せを噛みしめていることだろう。単身赴任の世界。僕には定かには分からないが、それなりに苦労もあるようだ。先日、その苦労話の一つを聞いた。今、そのことを書くことはできないが、よく分かる気がした。時々、思うが、「人は何のためにいきているのだろう?」って。否応なく時だけが時間を刻む。人はごく一般的には、8時間寝て、8時間働き、後の8時間は自分の時間だ。ほぼ、同じサイクルを繰り返しながら生きている。まあ言ってみれば、墓場へ向かって行進していることになる。死が迎えにくるまで、大きなしがらみや、小さなしがらみに右往左往しながら生きているわけだ。「それが、人間なんですよ。そうやって生きることが運命なんですよ」と言ってしまえば、もう話が続かない。あえて、「じゃああ、何のために、そう生きているのか?」と言えば、これは哲学の根本命題みたいなものだ。答えがたくさんありそうで、どれも真実らしく思える。「我々は、宇宙という絶対神によって生かされているのだ」。「我々は進化の担い手として生かされているのだ」。我々は、宇宙の刹那を偶然に生きることになった宇宙塵なのだ」。僕は、「進化の担い手として、生かされているんだ」という考えに共感する。ただ単に、子孫を残すことだけが進化の担い手なのかどうか、よく分からない。もっと、大きな何かがあるような気がする。「サムスイング・グレート」。ある大学の先生が、本に書いていた言葉だ。「何か偉大なもの」。進化とはサムスイング・グレートを探す旅なのかもしれない。
今日は抽象的な話になってしまった。僕自身でも何を言いたかったのかよくわからない。最後に一言。僕が今、求めているのは、エンドレス・ラブ」なのかもしれない。恐らく、のりちゃんも。


2002年11月12日(火) 何か命をかけるものー反省第三弾

何か命をかけるものー反省第三弾
at 2002 11/12 23:21 編集

今、僕に、「何か、命をかけるものがあるか?」と問われれば、即座に、「あります」と答えられるだろうか?。否である。どう言っていいのだろう。今の僕は確固たる信念を持って生きていないようだ。どうも惰性に流されている気がする。仕事にある程度、習熟し、社交という安楽にどっぷりと、つかってくると、安易に流されて、初心を忘れがちになる。「これではいけない」と、今日、あるテレビの番組をみていて感じた。魂を込めて、仕事を極めていく。極めても極めても極め尽くしえない。それでも極めを求めて、たゆまず精進していく。それが、プロの仕事と言うものかもしれない。ある技術職人さんの魂を込めた、命をかけた仕事と出来上がった作品を見たとき、なにか「じーーん」とくるものを感じた。「これだ」と思った。反省の第三弾ではないが、甘えていた僕に鞭を打つ意味でも、厳しく自己を見直さねばならない。僕自身を思うとき、人の目には、かなり幸せの域にあるように見えるだろう。実のところ、気ままに生かされているというか、生きているというか、ストレスを持たないアンポンタンである。世間の苦、世界の苦を横目に、のほほんと生きている馬鹿野郎である。感じている幸せ感は、砂上に築かれた楼閣であり、長く続くものではない。たちまち、崩れてしまうものだ。また、幸、不幸は塞翁が馬であり、定めがないもの。そのことを深く認識しなければならない。再び原点に戻り、ただ、ひたすら、自然の流れの中で、自分を律して生きていこうと思う。その中に、命をかけるものが、おのずと見つかるかもしれない。そういうことを感じた今日である。


2002年11月10日(日) 忘年会で今年の懺悔だ。

忘年会で今年の懺悔だ。
at 2002 11/10 11:55 編集

めっきり寒くなった。まああ、これが時期からして、当たり前の状態なのだ。車で街並みを走った。左右の街路樹のイチョウが見事に黄金色。きれいだ。風に吹かれて、これからどんどん散っていく。やがて、丸裸の枝だけになる。それでも、春になると、こんどは、グリーンの若葉でおおわれる。まぶしくて目を覆いたくなる。季節は巡り、その時々において、僕の心は踊り、はしゃぎ、沈み、いなえるのだ。これが生きていることの証なんだと思う。イチョウの葉っぱが落ちる今は、人生のたそがれ。ちょっと物悲しく、人恋しく、ぬくもりがほしい。暖炉に薪をくべながら、手をかざしていたい。ふと思った。白魚のように細く凍えた、「マッチ売りの少女」の手を、こんな暖炉で、しっかとぬくめてあげたいと。なんだか、今日はこんな優しい気持ちでいっぱいになる。やはり、クリスマスが近くなると、今年犯したもろもろの罪を懺悔して神の許しを請いたくなるのだろうか?さして、善行の一つでもしたいと思っているのだろうか?。そういえば僕も今年、いろんなことがあった。先日、反省の第一弾を記したが、今日は反省の第二弾だ。今年はどうも社交過多だった。本来の僕の仕事がややおろそかになったようだ。社交過多は決して悪いことではないが、むやみやたらというのはどうだろう?。時間と金を浪費したかもしれない。まああ、後悔がなければ、よしであるが。今年の残りもまだまだ、社交は続く。まずは、一見客の忘年会が今月16日の土曜日に決まっている。12名の兵たちが、我先にと、今年の懺悔をしにやってくるのだ。その幹事がぼくだから、始末にわるい。懺悔、懺悔でまた懺悔である。うんんん、来年こそはまじめで、懺悔のない日々を送りたいものだ。


2002年11月08日(金) 一足早い、今年の反省

一足早い、今年の反省
at 2002 11/08 09:44 編集

すっかり世間は冬景色だ。メル友さんが書いていたが、「遠くの山の雪景色を発見して、寒くなりました。秋を通り越してすっかり冬ですね」と。そうなんだよなああ。もうすっかり冬。街中にクリスマスソングが流れ、にぎやかになる。時を刻みながら、やがてクライマックスのイベントへと突入するのだ。2002年が終わる。なんと早いのだろう。「僕は何をしてきたのだろう?」。毎年、同じことを言っている。ただただ、今日まで、大過なく僕の体を支えてくれた健康に感謝せねばならない。「願わくばあと、50年は、健康、バリバリを与えてちょうだい」と、クライストにお願いしておこう。今年を反省するにはちょっと早いが、反省の第一弾として、記するなら、まず第一に、「おまえは飲みすぎだ」ということになるのだろうか?。これは、正直言って、あたっていない。僕は雰囲気が好きなだけで、決してノンベーではない。うんんんん、苦しい言い訳か。見苦しいぞ。第二に、「無類の女性好きである」ということか?。これは、愛し愛されるなら本望だが、「あなた、気が多いのね!!」と怒られそう。第三に、「超マメ、いわゆるマメ過ぎ」ということで、過ぎたるは及ばざるが如しである。第四に、「人なつっこい」。これで、知り合いは結構増えたが、多すぎて「あっちを立てれば、こっちがたたず」で、きりきり舞い。ひとなっっこさも程々がいいのかな?。第五に、特に思いつかない。またいずれ、反省、第二段を書くことにしよう。そうそう、先日、懇親会で、先輩が言っていたが人間長生きの秘訣は「スケベー」になることだそうだ。なるほど、僕はどうやら、長生きしそう。「うっしししーーー」と喜んだ次第。今、思い出した。反省の第六、「「調子に乗りやすいタイプ」。反省の第七、「自信過剰のナルシスト」。まあ、そんなわけで、反省というより、自らの欠点らしきものを羅列してきたが、来年は、もっと、紳士らしく真摯に生きていこうと思っている。「紳士???どこがああああ???」という非難の声が聞こえそうだ。果たしてどうなることやら?。今から楽しみである。


2002年11月05日(火) 楽しくいきなくちゃ。パート2。

楽しくいきなくちゃ。パート2。
at 2002 11/05 11:54 編集

外資系生命保険会社に入社している友人(大学の後輩で同学部)から、保険加入を勧められた。保険はいくつか過去に入っていたが、その会社がことごとくが破綻してしまって、困ったものだと思っていたので、切り替えるにはちょうど良い機会だった。それはそうと、保険というのはもともと、自分のためというより、我が身亡き後の、遺族の生活保障のためにあるものだろう。僕は正直に思ったものだ。「自分が亡くなった後で、いくら保険が降りても、自分としては、ちっとも面白くないじゃないか」と。はたまた、寝たきりにでもなると、「早く、くたばればいいのに」と、うらめしそうな顔で見られるのがおちだ。目をあわすと、冷たい眼光が怖くて、思わず早く逝かなくちゃ悪いなあ・・・」と思って、事実、そうなってしまうかもしれない。なんと悲しいことだ。と言うことで、僕は友人に言ってやった。「おい、おい、○○ちゃんよ。生存保険がとれて、老後を楽しくやれる商品はないんか」ってね。友は待ってましたとばかりにいわく。「あります、ありますよ。先輩。20年か25年くらいかけて、解約すれば、ほぼ掛け金に近い金額が戻ってきますよ。まだ僕たちは元気バリバリでしょうから、二人で旅行でも行きましょうよ。」ときた。「うそおおっつ・・・、本当っつ?・・・わおおおおっつ・・・・」ということで、契約はそく成立。いやはや、昨日の日記ではないが、「人生楽しく生きなくちゃ。死後のことまでは分かりませんよ。」である。
ただ、「楽しく生きなくちゃ」という考えは、個のみに走っていいということではない。個々人が個のみを追求すれば、将来に希望をもてなくなる。今朝の新聞に、そんなことを書いていた。少子化がますます進行し、未来社会を担う子供たちが育たない。繁栄している国力にかげりが見え出したときの現象として、「グルメブーム」、「教育の衰退」、「少子化」を掲げていた。なんとなくうなずける。



2002年11月04日(月) 楽しく生きること

楽しく生きること
at 2002 11/04 12:05 編集

最近、中野孝次さんの書いた、「死を考える」という本を読んでいる。まだ全部を読んでいないので、具体的にはかけないが、「死の自覚があってこそ、今、ある生が輝くのだ」という著者の言葉が深く胸にしみる。僕も若いころ、死を恐れた。「何故、人は死ぬのだろう」、「自分が死んだらどうなるのだろう」と、夜な夜な布団の中で、死の恐怖におののいた。齢を重ねてきても、死に対する恐怖の念は拭い去れない。多分、今もそうかもしれない。「多分」、と書いたのは、今はいくらか気が休まっているからだろう。「死」を自覚すると言うのは、人間もあらゆる生命体も必ず「死」を迎える。その「死」はいつやってくるかわからない。死をそういう風に真正面からとらえ肯定することである。そう、「死」を自覚した時、おのずと、生への味わいも深くなる。「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」と、著者は先人の言を引用して述べている。僕もこの言葉を聞いて、気が楽になった。「日々を楽しく生きなくちゃ」。死はいつかはやってくるが、死ぬときにしか分からないし、分からないことに恐怖を抱いても無駄だ。だから、日々生きている今を楽しく生きる。やっぱりそれでいいんだよなあ・・・・・・。だからと言って、酒ばかり食らって、トラになることとは違うんだよなあ・・・。まああ、それも楽しく生きることの一部である。変に納得。




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